さてさて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/19/071331
「時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/02/04/103246
「中世墓はどう捉えられているか?…「事典」で「山」たる基礎知識を学ぼう」…
一通り、簡易的な予備知識を入れた処で、最新研究の動向を確認していこう。
この本の出版は「中世墓資料集成」確認作業中で知っていた。
SNS上で「こんな最新版を読め」みたいな話を見た事があるし、自分で見た物と研究者の最前線との隔たりがどの位なのか?は確認の必要はあるので、買ったまま平積みして順番待ちにしていた。
筆者は右も左も無いので、提示された資料を読むなんて事に躊躇はない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
「南部氏の城館を追う…安東vs南部抗争と北海道史との合致点」…
この「陶器底部線刻」を教えてくれたのはウポポイのマーク氏。
もっとも、それを元に確認した結果は真逆のこれだが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/01/31/162842
「「線刻を施す食器」は、勿論在地の物…似たようなものは秋田にもある」…
厚真のこれは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/09/191537
「時系列上の矛盾、厚真町⑤…「オニキシベ2遺跡」に中世遺構はあるのか?」…
粘着性を持つアカウントからの情報。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…
ちゃんと現地迄足を運び、レクチャーを受けてきた。
知識0から始めた筆者にとっては、情報提供は有難い事。
多少「学がない」「古い文献しか知らないのか?」と罵られ様がそんなものはどうでも良い事で、そこから掘り進めて確認すれば良いだけの事。
もっとも、至る結果は教えてくれた方々の話とは真逆の結果に辿り着く事が多いのは何故なのか?
まぁそれもどうでも良い事だ。
と、言う事で、早速中身を読んでいこうではないか。
まず、冒頭から「最前線からの前提条件」を同書から引用しておく。
「すなわち考古学では編年研究が進み、縄文文化とアイヌ文化は直接つながるもので ・はなく、少なくとも一千年以上の開きがあることが明らかにされた。」
「北海道の縄文文化は、植生の境界にあたる道央部の石狩低地帯や、北海道南西部渡島半島つけ根の黒松内低地帯を境に、道東・道央・道南の文化圏に大別されるが、黒松内低地帯以南の道南部は縄文時代を通して本州北部と一体の文化圏を構成しており、津軽海峡が文化圏の境界になることはほぼない」
「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15 より引用…
前提①
よくSNS上で縄文とアイノ文化の直接の継続性を語る方々が居ると聞いているが、それは考古学的には「否定」されている事だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/06/174150
「時系列や層別らの重要性…河野廣道博士からの警鐘」…
ここで我々も述べているが、既にそんなものはとうの昔に否定され、北海道観光が活況を浴びる度にマスコミにより焚き付けられているだけのもの。
昭和初期でも最新研究でもハッキリ指摘されている。
これを語る事は「学問への冒涜」「亀ケ岡文化の否定」に繋がる。
きっぱり「止めておけ」と言いたい。
前提②
縄文期段階で「津軽海峡が文化圏の境界になることはほぼない」のも、学術的に認められた話。
「デカくて塩っぱい川」と例えられるのはその為。但し、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/20/122947
「何故、十三湊や秋田湊である必要があったのか?…「津軽海峡」を渡る為の拙い記憶の備忘録」
どんな川でも渡るには「コツが要る」事を忘れてはいけない。
この二点を「前提条件」としておく。
同書は、
・第1章 アイヌ文化へのまなざし
・第2章 アイヌ研究の歴史
この2章で背景や研究史の解説、
・第3章 アイヌ文化成立前の北海道
・第4章 アイヌ文化の形成と特徴
・第5章 和人の進出とアイヌ文化の変容
この3章で文化成立のプロセス解説、
ここで外部文化との関連性、
・第7章 アイヌ考古学の展望
と言う構成。
①背景…
著者は、
・最古史料→「今昔物語(12世紀)」
・姿を描いた最古史料→「紙本著色聖徳太子絵伝(1321年)」等同系絵巻
・中世詳細史料→「諏訪大明神絵詞」
・菅江真澄の一連文書
他、近代ではモース,シーボルト,ディキンス,ミルン,坪井正五郎,ヒッチコックらが取り上げたとして挙げている。
同書内で取り上げた主な古文献は他に
「新羅之記録」「アンジェリス&カルバリオ神父の報告」「フリース船隊航海記録」等。
おっと待った…
「今日知られるアイヌを記した最古の史料は、一二世紀に書かれた『今昔物語」と考えられている (海保夫一九八七「中世の蝦夷地」吉川弘文館)。『今昔物語」(国史大系本)では、陸奥国奥六郡(現在の岩手県奥州市~盛岡市)の支配者である安倍氏を古代東北の蝦夷(エミシ)に列なる「酋(エビス)」 の長、これよりさらに奥の住人を「夷(エゾ)」とし、エゾとエビスが区別されている。 」
「エミシ」と「エゾ」の分布定義をこうした直後に「紙本著色聖徳太子絵伝」について、
「場面は、敏達天皇一○年(五八一)に起きた蝦夷の大蜂起の際、一〇歳の聖徳太子が天皇に建言して、大和国 三輪山麓を流れる初瀬川(大和川の上流)の辺りでみずから蝦夷の巨酋綾糟を説服されたという伝説にもとづく「十歳降伏蝦夷所」である。おそらく描いた絵師は実際にアイヌを目にしたこと はなかったと思われるが、アイヌの伝統的衣装の一つで「ラプ ル」とよばれる鳥の羽根でつくった衣を身にまとった人が描かれていることからわかるように、アイヌに対する知識はある程度持っていたようだ。注目されるのは、蜂起を諫める馬上の太子の前にひざまずく四名の蝦夷のうち、三名が持っている半弓とよばれる短い弓と矢筒である。当時和人が アイヌに対して弓矢に長けた人々というイメージを強く持っていたからこそ、このような絵が描かれたにちがいない。」
としている。
矛盾に気がついただろうか?
・アイノ文化成立は擦文土器消失と規定…
・聖徳太子の時代はまだ国衙が東進,北進の時代で東北には到達せず…
仮に擦文土器消失が14世紀だったとして、事件のある581年とは約900年、北上市と三輪山の距離約700kmの時空を「吹っ飛ばして」アイノの姿とするのか?
筆者はこれを「キング・クリムゾン効果」と呼びたい。
荒木飛呂彦氏の漫画「ジョジョの奇妙な冒険第五部」のラスボス「ディアボロ」が使うスタンド(特殊能力)「キング・クリムゾン」は、正確な予知をして「自分の考えに不要な時間数秒を吹っ飛ばす」事で能力者の都合の良いように前後の時間を繋ぐ事。
前提①もそうだが、ここでも時系列上900年、距離700kmの時空を吹っ飛ばして、聖徳太子の時代の事件と後代文化を接続している。
先の略定義を逸脱した上で最凶版「キング・クリムゾン効果」は如何なものか?
これが、遺物と伝世品による接続が完成しているなら良いだろう。
だが、まだ擦文土器消失すらハッキリ規定出来ない現状。
その絵図に描かれたのは、エミシ?エゾ?
まぁ特段驚く事はない。
ぶっちゃけ「あるある」なのだ。
付記すると…
「またこの時代以後の他の記録には「糠部の駿馬」の起源でもある狄馬や、鹿角地方の特産品である毛布狭布、あるいは貂裘・粛慎羽(北方産の鷲の羽か。写真60)・胡籙などがみえ、中央から、北の 世界独特の物品が強く求められるようになっていた様を知ることができる。
毛布狭布とは、麻・苧の狭布に山鳥・野兎の毛を混ぜて織っ たもので、仏教思想によって毛皮を着られない京都貴族の冬の必需品ともいわれているものである。これを産する鹿角は、それゆえに「けふの郡」とも呼ばれた。三十六歌仙の一人能因法師の和歌(『後拾遺和歌集』・写真61)にもこの布が登場するほど都では著名なものであった。」
「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」
新編弘前市史編纂委員会 平成15.11.28 より引用…
後拾遺和歌集の成立は11世紀頃。
この頃に鹿角はもう俘囚扱いだろう。
今昔物語や紙本著色聖徳太子絵伝成立前から「毛布狭布」は都で珍重されていたのが解る。
まだアイノ文化の欠片もなく世は擦文文化真っ只中、直結は出来ないのでは?
それに、延喜式上、出羽国は我が国最大級の「絹の産地」である事を忘れてはいけない。
さて、考古学としては、駒井和愛、渡辺仁、宇田川洋、佐藤宏之、天野哲也、瀬川拓郎…で関根達人らの実績を挙げる。
って、河野広道博士の名前が無い…
戦前から後藤寿一氏らと江別,恵庭古墳群やアイノ墓標の識別ら、草分け的存在なのに…ただ、この辺は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/12/054834
「河野広道博士についての二題…発掘,研究への気構え&「人送り(食人)」伝承について」…
「糾弾事件」らで察するべし。
学閥や如何に「ムラ社会」なのか?解かろうものだ。
因みに…
「敗戦により外地のフィールドを失った研究者が、北海道・沖縄・奄美・対馬といった「内なる外地」に目を向けるようになった戦後である。一方、人類学や民族学では、「混血或いは異文化との接触に 依って、アイヌ民族固有文化は急速に消滅しつつあるのであって、速やかに人類学的民俗学的総合調査を運行しないならば、遂に永遠にアイヌ文化の究明は不可能となるかも知れない」(日本民族学協会」 一九五○「アイヌ民族総合調査の計画」『民族学研究』一五-一、三四頁)との認識のもとに、一九六〇年代までは アイヌの遺骨収集や親族関係調査が続けられた。しかし一九七〇年代にはさまざまな社会運動と交 したアイヌ民族復権運動のなかで、それまでの人類学や民族学によるアイヌ研究にも厳しい目がむけ られるようになり、それらの分野でのアイヌ研究は後退せざるを得ない状態となった。」…
だそうだ。
その辺の背景は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/21/073146
「何故度々「縄文=アイノ論」が浮上するのか?…'70の活動家の主張と当時の世相を学んでみよう」
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/02/22/214116
「北海道庁爆破事件とは?…当時の状況はどうだったのかについての備忘録」
我々も捉えている。
活動家第一世代の後見人をやった河野広道博士と、'70sの活動家に同調した研究者…著者がどちらに近いスタンスかはこの辺で見られそうだ。
第一世代が非常に「観光アイノ」を嫌っていたか?は、ずーっと述べてきている。
②文化編纂…
第3章についてはほぼ書く事がない。
と言うか?
同書でも、
・縄文
・→続縄文
・→擦文
・→何らかの理由,影響で「土器喪失」
・→アイノ文化化に文化変容…
ここまでは最早通説的に言われている事で、それを解説している。
ここでハッキリ、
「恵山式は弥生土器の影響を受け、江別太式は恵山式の影響を受ける」
「擦文土器は土師器の影響で成立」
「大陸系のオホーツク文化は擦文文化に吸収される」
との認識を記述している。
この辺はもう他の論文を読んでも、異論は出ている様子がなく、概ね見解の一致をみている様だ。
ここに「キング・クリムゾン効果」は発動のしようがない。
故に「何時何をキッカケに擦文土器消失し、何の影響を受けるのか?」…これが現在の研究者達の課題である。
縄文〜擦文迄、北海道が孤立し独立した歩みだったと言う事実は無い。
実は著者、江別古墳群らの被葬者は、「北上したエミシの支配層」と言うスタンス。
その上で、擦文文化の成熟過程で在地の人々と同化,吸収されただろうと述べている。
文化伝播に留まらず、少なからず移住を伴うと言う事。
対岸の東北らとの関係の影響を受け、行き来し、都の動向も反映した上で文化成立している事を忘れてはいけない。
ここで、著者はオホーツク文化とアイノ文化の類似性についても3点の問題点を挙げている。
これは当然なのだ。
オホーツク文化が擦文文化に吸収されるのは土器消失以前なのだ。
よく「熊送り(イオマンテ)」の原型をオホーツク文化に求める論はあるが、これも「キング・クリムゾン効果」と言える。
現実には、オホーツク文化で見られる熊の頭骨を並べるらが、擦文文化へ吸収された後に再出現するのは江戸前〜中期の古文献で、考古学的にも文献的にも約450年の空白がある。
これを埋める為に必要な鍵として
・「 九~一〇世紀、擦文文化によるオホーツク文化の同化の過程で、擦文文化のなかに組みこまれたオホーツク文化の文化要素を抽出する。」
・「 一三、一四世紀のアイヌ文化のサハリン・千島列島への北上にともなう大陸文化の受容を明らかにする。」
・「アイヌ文化を構成する文化要素の系譜をオホーツク文化と擦文文化に限定せず、ヤマト文化も視野に入れて検討する。」
を挙げる。
理由は極簡単。
近世以降のアイノ文化に対し、擦文文化やオホーツク文化がどの様に受け継がれたか?の系譜が全く未解明だから。
それぞれの要素を分解し大陸,本州も含め系譜解明しなければ、そんなもの解かろうハズもない。
最重要課題でもあろうが、熊送りはそんな確認すべき要素の一つでしかない。
では、個別に著者がどう見ているか?
A,墓制…
第1章に記述があるのだが、
・アイノ文化…土葬,伸展葬,厚葬,非墓石文化
・日本文化…土葬,座葬,薄葬,墓石文化
・琉球文化…洗骨,再葬,非墓石文化
こう定義する。
だが、これは近世以降の比較でしかない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/17/191101
「北海道中世史を東北から見るたたき台として−11…日本国内全体像を見てみよう、そして方形配石火葬墓,十字型火葬墓は?」…
著者が述べるアイノ文化形成〜近世初期迄の墓制確認は行った。
本州の座葬が広がるのは近世初期、主に都市化された後。
そこまでは土葬と火葬が入り混じり、屈葬と伸展葬が入り乱れる。
アイノ墓にしても、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/11/123006
「これが「近現代アイノ墓」…盗掘ではない発掘事例は有る」…
最終到達点はここ。
本来、この定義に至り最終到達点へ向かうプロセスがないと、説明出来ないのではないか?
何より重要なのは前項でも述べているが、「アイノ墓の伸展葬化は末期古墳から」…これを述べていない。
一般書だからこそ書くべき事だ。
これらの実績が河野広道,後藤寿一博士らによるもの。
B,ミッシング・リンク…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
「この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事」…
こんな事は無いと言う方も居る様だが、著者はこれを認めている。
と言うか、明確に中世を謳える遺跡数が少な過ぎて、擦文土器消失や代替プロセスが見えない→文化変遷が証明不能。
著者はその上で、厚真の一連の発掘調査、
・宇隆1遺跡の経壺…
・上幌内2遺跡の和鏡…
これらが平泉ら東北との繋がり、
・ワイヤー製垂飾…
・北宋銭,ガラス玉…
これらを大陸系、特に沿海州との繋がりを示し、双方との「交易の民」としての初源的アイノ墓と推定している。
和鏡,ワイヤー製垂飾,北宋銭は同一墓の副葬で、和鏡の下部には毛皮があり、熊の毛と判定されたとの事。
その上で、著者は厚真の成果を根拠に中世でのミッシング・リンクの解消を示唆している。
だが…
これ見方によっては逆なのだ。
後述する伊達市方面の成果迄入れても、余市と厚真を繋ぐライン…「新羅之記録」にある「鵡川から余市迄村々里々」、このライン上の臨海、又は近い点でしか中世の痕跡は見つかっておらず、前時代擦文文化遺跡の広がりが急激に萎むプロセスを説明出来ていない。
現状は「厚真頼み」に成らざるをえない点をどう説明するのか?
と、この項で著者は、奥州藤原氏は交易と仏教をセットで接しようとしたが、擦文文化人は権威財は受け入れても「仏教を受け入れる事は決してなかったのてまある。」…としているが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/06/201803
「北海道弾丸ツアー第三段、「厚真編」…基本層序はどう捉えられているか?を学べ!」…
厚真の見解は「文化の源流に修験有り」だ。
神仏習合…明治以前の我が国ではこんな考え方。
諸仏が権現と化し神の力を揮う…か。
切り離されたのは明治の廃仏毀釈からで、修験の受容は即仏教、それも密教要素の受容になる。
C,擦文とアイノを分けるもの
・鍋,漆器
細かくは書かないが、当然ながら土器消失段階で代替食器として鉄鍋+漆器と変遷したと。
だが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/08/070139
「生きていた証、続報34…食器と言う視点で北海道~東北を見てみる」…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/10/12/185112
「鍋について学んでみる…その東北,関東における起源と変遷」…
鍋については何度か取り上げた。
ぶっちゃけ、鉄鍋+漆器文化圏は北海道,北東北,京、ポツポツ北陸…だろうか。
面白い事に、中世墓の副葬だが、鉄鍋してカウントしているが、最初に書いた通り土鍋や瓦質羽釜もカウントしていて、関西以西は見事な迄に鉄鍋でなく土師質,瓦質に変わる。
北陸では、貸し鉄鍋+メンテナンスが商売として成立。
樺太,千島は内耳土鍋製造が近代迄継続した。
で、内耳土鍋の出現が早いのは南東北だったりする。
なので、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/29/201710
「伊達政宗公の野望のルーツ-2…「長井市史」に記される、「内耳土鍋」を作る頃の伊達氏は?」…
こんな事を探る。
これをどう解釈するか?
鉄鍋+漆器文化圏が京と北東北と同一に起こる本道は、別に特徴的な出来事として語る必要はなく、日本海交易の延長線上で切り替わる…で説明可能で、奥州藤原氏からの交易量増大によるで問題ないのでは?
・装飾品
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/01/08/210833
「コイル状鉄製品のルーツとなり得るのか?−2…螺旋形状をした事例3点の備忘録」…
この辺が、中世墓確認からの延長上で、本州事例らの確認最中。
但し、ガラス玉は何度も書いているが、中世墓への副葬事例は日本中にある、「数珠」と表現され。
ガラス玉は割と水晶玉と合わせて九州辺りで多くなるのではないだろうか。
著者は中世のガラス玉生産地を大陸に求めているが、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/27/184710
「「ガラス玉」の背景、あとがき…主な産地の一つは「インドネシア」、そして…」…
大航海時代後の最大産地はインドネシアだし、それは大陸へ送られていたし、引用している「フリース船隊航海記録」に樺太らで乗組員がばら撒いてる記述を著者は読んでいるハズ。
国内でも「一乗谷朝倉氏遺跡」にガラス玉工房跡は検出するし、何より江戸期に倹約令で廃れる前迄関西で作っていたのは確認済。
まだ当たれていないのは耳飾位か?
とは言え、これも引用しているアンジェリス&カルバリオ神父の報告にある様に、彼らが報告した「yezo」はテンショ(天塩と樺太方面)、メナシ(目梨泊と千島方面)の人々の様なのは著者も読んでいるハズ。
何故、国内事例と比較せず、山丹交易しか意識しないのか?
因みに後の項にあるが、19世紀頃に松前城下町でガラス玉の製作をしていた事を発掘調査で明らかになった著者は記述している。
そして、伝世品としてのタマサイの分析として5段階に細分出来るそうだが、最も古い年代で、17世紀後半迄「遡る」そうだ。
ん?
これは逆ではないか?
17世紀迄しか「遡れず」、まだ中世迄接続出来てはいない…ではないのか?
1600年代後半…Ta-bら火山噴火や寛文九年蝦夷乱の時代。
それなら納得。
実は「山丹交易」と強調はされているが、記録される物は魚や毛皮,皮革とされ、伝世品で明確にそれを証明する物は殆ど無いそうで。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/07/07/063354
「北海道弾丸ツアー第三段、「平取編」…「何故古い物の展示がないか?」には、明確な理由が理由がある!」…
これも平取と厚真でご教示を受けた通り。古い物が無いのには明確な理由がある。
端から伝世品が少ないのだ。
・チャシ…
著者は軍事施設か?祭祀施設か?…
これには「本来の機能は祭祀施設」で軍事機能は後に付加と判明としている。
ここは至極同意である。
但し、B,を見て戴ければ、我々が言いたい事は解るかと。
著者もその根拠に挙げる、厚真のヲチャラセナイチャシ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/06/28/202837
「時系列上の矛盾、厚真町⑧…これが本命「ヲチャラセナイチャシ」とは、どんな遺跡か?」…
これが「護摩堂」ではないか?と考えている。
つまり、「修験道場や神社仏閣跡」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/05/23/194651
「余市の石積みの源流候補としての備忘録-5…内容精査し、北東北の中世城館石積みの傾向を見てみよう」…
土台、我々にとって「中世墓」の確認も修験の影響確認も、最終到達点は「余市の石垣は何か?」ここに至るプロセスの一つでしかない。
中世墓の分布やチャシ,中世城館の分布らと照らし合わせているのも、その手段である。
これは「今後として」だが、北海道式の形態区分で日本中の中世城館の形式分類をするつもり。
これなら、これら「祭祀施設」を北海道へ伝えた集団系譜が見えるだろう。
以前、チャシは14世紀位からと言われて来たが、著者も11世紀位から出現するようだと指摘している。
チャシそのものの発掘事例が少ないのもあるが、今後事例が増えればもっと明確に「構築時代が遡る」だろう…北東北の「防御性環濠集落」時代までだ。
・イクパスイ…
著者は現状最も古いイナゥやイクパスイと考えられる(又は源流)ものは「ユカンボシC15遺跡」の平安(擦文文化)期のものとしている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/28/080712
「時系列上の矛盾…ユカンボシC15遺跡出土の祭祀具等木工品は「本州産木材」」…
これの事。
ここで著者も「材質が本州から持ち込まれたスギやアスナロ」だとして、特別な理由があったと指摘する。
著者はここで踏み込む…
現状、同様のアイテムはニヴフ,ウイルタらでも確認され、中世位に出現する様だ。
つまり、ユカンボシC15遺跡のそれがそうだとしたら、13世紀のアイノ北上に伴い、彼らが外部のニヴフ,ウイルタへ伝播させた可能性が出てくる訳だ。
それもオリジナルは本州産材質に「拘りを持ち」だ。
あの…
秋田城ら平安に機能した「国衙・城柵」には必ず一名「陰陽師」が派遣され、地方での祭祀に当たっては教えを受けた者が代行したのではないか?とされているのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/02/191856
「時系列上の矛盾…「斎串,祭祀場」との関連性を見る為、能代「樋口遺跡」を確認してみる」…
こんな感じ。
その少し後だろうか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/05/111841
「お陰様で㊗50000アクセス、なので地元ネタ…「十字型火葬墓」がある場所はどんなとこ?」…
この辺の地域と重なってくるか。
こんなところが再三言う「勝手にパズルのピースが組み上がる」と言うところ。
「陰陽師」の指導で地方祭祀を代行したのが「修験僧,山の聖,行者」なら、修験の北上と概ね合致してくるが。
別に驚く事でもないのでは?
・火葬墓…
この辺が興味を持ったところ。
「合葬墓や茶毘墓もまた沿海地方に起源を求めることができる。沿海州アムール川流域のアムール女真文化では、一一世紀末の土坑墓の墓地において埋葬地点の上で火葬(クレマーツィヤ)する習俗がみられる。ウラジオストク近郊のナデジ ユジンスコエ墓地では、女性と幼児の合葬例や、「埋葬焼却の仮屋」の痕跡も確認されている。 アムール女真文化の火葬は、靺鞨以来の伝統的な土葬に「エグスグマーツィヤ」とよばれる遺骨掘り出しや棺焼却をともなう除厄浄化儀礼が 加わり、発達・複雑化したものと考えられてい る。ロシア沿岸地方オクチャブリ地区のスイフシ川右岸に位置するチェルニャチノ5遺跡から発見された墓はすべて二次的な火葬を受けており、そのなかに、土坑の底部に石を敷き詰め、遺体を納めた棺もしくは木製構造物を置いて火をつけるものや、土坑内に遺体を納めた棺もしくは木製構造を置き、土坑の周りを石で囲い、それらを焼く墓が報告されている。」
ほう!
靺鞨は元々土葬で、何らかの影響で火葬を始めた…か。
さて、中世墓を確認段階でも書いているが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2024/03/19/071331
「時系列上の矛盾「方形配石火葬(荼毘)墓」…「有珠オヤコツ遺跡」ってどんなとこ?…※追記1」…
11世紀の沿海州の事例に14〜15世紀と判断する余市「大川遺跡」、有珠「オヤコツ遺跡」の事例を重ねると、300年程度の「キング・クリムゾン効果」なんだが…
ここで、本州の事例比較らは一切無い。
北陸なら、同時期に方形配石遺構での火葬実績はあるのだが。
「渤海国」は唐が認めた仏教国。
仮にその形式が渤海から伝わったとしても、北陸経由が時系列上の矛盾が消えるのだが。
それに、方形配石遺構に蔵骨器を埋葬した「火葬墓」は、持っと遡る事が出来るのだが。
方形周溝墓なら尚更で、これも中世東北で検出を見る。
大体、火葬そのものが仏教形態の一つとして持ち込まれたものではないのか?
靺鞨も渤海時代から火葬を開始したのであれば、そりゃ火葬の受容もあるだろう。
「アイノは仏教を受容しなかった」と著者の指摘を適用するなれば、火葬の受容は有り得ないのでは?
と、ここまで書いたら、お気付きだろう。
著者が北方系文化の受容として捉える部分を「修験の北上」へ置き換えれば、恐らくミッシング・リンクを含めた「時系列上の矛盾」はほぼ消えると考える。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/09/051702
「羽黒山鏡ヶ池に眠る「羽黒鏡」とは?…出羽三山信仰の核の一つを学ぶ」…
北海道で検出される「和鏡」の意味を考えた事があるのだろうか?
目の前に、和鏡を根幹に持ち日本中の信仰を集め、鎌倉幕府執権にすら物申せる「大信仰集団」があるのだが。
「一つ穴の和鏡」はこれで事例は確認出来る。
そして、修験の北上の影響を最大限に見れば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/10/11/201720
「修験らの影響を加味した場合「消えた中世」はどうなるのか…現状迄の素案の一つとしての備忘録」…
こんな風に、矛盾は消える。
そして、その場合、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/08/07/201518
「丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて」…
こんな風に推移してきたのでは?
本書で気になった他の部分を付記すれば…
・厚真の指摘の「修験」は登場せず…
・東通村「浜尻屋貝塚」を本州アイノと捉えており茶道具の出土迄指摘しているが、それより先に「アイノは仏教,茶の湯」を受容しないとしている。なら重ねて良いのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/09/124507
「浜尻屋貝塚の遺物を確認&下北半島の中世城館に石積みは?…再び下北半島を回れ!」…
また「硯」については一言も無い。
ここの人々は文字を持つ…
・蠣崎波響の「夷酋列像」を一つの根拠にしているが、メナシ衆且つ、蠣崎波響は彼等と直接合って書いたのではないハズ。根拠になるのか?
同様に、奥州仕置の九戸城内の夷衆へ言及しているが、その「氏郷記」は年代らが不明だと思うが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/09/21/210518
それらの史料批判はされたのか?…
・有珠らの「畠の畝跡」に言及し焼き畠系かとしているが、それこそ「突如それまて検出しない畝が出来る」理由へは触れていない…
etc…
まだ解明すべき点はあるかと思う。
率直な感想…
筆者は資料館巡り、疑問に思った事を無造作に文献で調べてきただけだが、割と最新版でポイントとして指摘された事は押さえられていたかな…だ。
視点や解釈は違えども、著者が参考文献されていた文献の幾つかは既に発注した。
ここから、知見を増やすステップとして良い学びになった。
感謝である。
敢えて最後に…
北海道研究の「大穴」は「本州との事例比較が殆ど無い」事だろう。
関根教授は「弘前大」だが。
目の前に材料が揃っているのに、何故そことの接続を行わないのか?
よく話す方とも「勿体ない」と…
まぁ、我々が学ぶのは「北海道〜東北の関連史」。
人は人、我々は我々…
それがメインロードの研究者であっても、我々のスタンスは何も変わりはしない。
参考文献:
「つながるアイヌ考古学」 関根達人 新泉社 2023.12.15
「新編 弘前市史 通史編1(古代・中世)」
新編弘前市史編纂委員会 平成15.11.28