「時系列上の矛盾」&「生きていた証、続報⑳」…やっと見つけた「古代の井戸様遺構」は白老にあった!

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108
直接はこれ、「時系列上の矛盾」の前項となる。
だが、同時に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/08/081429
「生きていた証」として紹介してきた内容は元々、北海道に於ける生活文化具を東北との関連性から紐解いていこうと言うもの。
実は、一番最初は「文字」そして「井戸」、それが「中世の竈」に拡大した訳だ。
これらは、生活や文化に直結し、誤魔化しが効かない。
と、言う事で、こちらも見て戴きたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/24/041443
後藤寿一博士は、江別の発掘を進める上で、「井戸」の存在を示唆していた。
まぁ縄文期でさえ、海,川に近い狩場や貝塚近くの作業場と高台にある居住区での水源は別れていた様だ。
だが、北海道の古代~中世には「井戸」の痕跡がない。中世渡島半島の城館の一部にはあるが、かの「勝山館」とて水源から引いた物の様だ。粘土や木枠で囲い、湧水を溜め込む「井戸」ではない。
近世アイノも井戸は使っていないとか。
当然、衛生上の問題も絡んでくる訳だ。

では、引用してみよう。
「遺構は4C区の杭の直下にあり、後背段丘崖と遺跡のある大地とが接する地点にある。」

「Ⅶ層を上面として作られている。上面径68×60cm、深さ36cmの穴に約2cmの厚さを持つ黒褐色の粘土で壁を設けている。この粘土で囲まれた穴は上面で37cm、底面で30×34cm、深さ36cmの規模を持つ。この穴の上面には、5~10cmの扁平な頁岩製の小礫が敷き詰められている。掘りこみ穴と粘土壁の間には、有機質を含む火山灰と、上面と同様の礫が埋められていた。」

「遺構内には底面より水がしみ出し、一時間程で水位は上面に達する。このことや、粘土壁の構造から、この遺構は湧水を利用した井戸に類する施設ではないかと思われる。」

「遺構の内部および周囲からは遺物は発見されなかったが、層序から見てⅡ群土器を伴う時期の遺構である可能性が高い。」

「アヨロ遺跡-続縄文(恵山式土器)文化の墓と住居址-」 北海道先史学協会 昭和55年3月31日 より引用…

先述の遺跡の概要部分では「井戸様遺構」として紹介している。
が、あまり話題になっておらず、「結語」章でもほぼ触れてはいない。
それはそうだ。

井戸の歴史…らでググって戴きたい。
我が国最古級の井戸跡とされるものは大体7世紀位のもので、飛鳥の地より西側。
各地に広めたのは、遣唐使から帰国後の「弘法大師」が密教の布教に際し、その知識,技術を広めたと言う話まである。
それより前と言うなら、場合によっては、これぞ最強クラスの「ミッシングリンク」と化す。
まして、ここでは大陸系文化の痕跡は一切出ていない。
編年指標が7世紀後半辺りと合致するなら話は別だが。
勿論、ここ「アヨロ遺跡」では、前項の通り、擦文期の遺物が包含層にある。
仮に擦文草期だとすれば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
この様に、北東北の土師器文化集団が、朝廷から受け継いだ技術で構築したとも成立してくる。

さて、「井戸様遺構」そのものの層序を見てみてみよう。
引用の通り、Ⅶ層に礫があり、Ⅴ層(続縄文(恵山)期の遺跡層)より下にある。
普通に考えたら続縄文期より下る事はない。
だが、何故か?この遺構上部は、Ⅴ層の下に1,黒色土層、2,褐色砂層、3火山灰…この3つの地層が入り込んでいる。
ここ、崖縁なので地滑りでもしたのか?とも、考えられる訳だ。
この火山灰層が、何由来なのかは記載なく、調べていないのかもしれない。
つまり、掘り込まれ剥き出しの井戸の上に、Ⅴ層より上の地層が地滑りで被さった…
妄想,推定はこの辺にする。

が、続縄文~擦文の遺物が揃う白老の「アヨロ遺跡」に井戸の機能を持つ人工的遺構があった事だけは間違いがない。
この時代に「アイノ文化」はまだ無い。
そんな文化と全く違う、それも朝廷に起因されると思われる「技術」を持った人々が「白老に住んでいた」と言う事実が大事であろう。


再度書く。
「技術」伝播の歴史を覆す事は不可能。
ましてや、生活に密着した「技術」なれば、絶対なのだ。
なら、白老に「先住していた人々」は…誰?
少なくとも「アイノ文化人」は有り得ない事になる。


歴史って面白いと思う。
たった一つの事実でガラリと変わり得るのだ。
特に北海道史は…


参考文献:
「アヨロ遺跡-続縄文(恵山式土器)文化の墓と住居址-」 北海道先史学協会 昭和55年3月31日

時系列上の矛盾…北東北にある「擦文(系)土器」を作った人々について

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/21/144647
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323

さて、2項続けて日本考古学協会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 から書いてみた。
この際なので、北海道直接の部分を全て取り上げようと言う事に。
「北東北の擦文(系)土器」と言う内容で、齋藤淳氏が東北での擦文(系)土器の分布らを調査,報告している。
何故擦文(系)としているのか?
実は擦文土器とは定義が曖昧で、その編年を以前から試みている様だが、その終末を特定するに当たり、元々本来的な「擦文土器」の範疇から外れる物(「青苗文化」(瀬川 2004)等)も含まれ、その妥当性の結論が出ていないとの事。
よって、「擦文(系)土器」と言う事で報告をしている為だ。


この報告では、10~11世紀の擦文(系)土器のデザイン傾向により、地域性が分かれると言う。
北東北では、
A地域…
下北半島陸奥湾沿い~津軽半島東(外ヶ浜)…(陸奥湾,津軽海峡付近)
B地域…
津軽半島西側~秋田(能代)…(日本海沿い付近)
C地域…
奥入瀬川以南…(南部太平洋沿い)

に、出土品の傾向が分かれており、それが、
A地域…
渡島半島東側~噴火湾方面…
B地域…
渡島半島西側~道央日本海側…
C地域…
出土せず…
と、それぞれ対応する傾向が見られ、それがそれぞれの主な交流ルート…日本海ルートと太平洋ルートと対応するのではないかとした上で、それら擦文(系)土器の製作者を、下記引用文で仮定している。


「北奥における擦文(系)土器の存在理由については、擦文文化圏から嫁いだ女性が製作(瀬川 1996)、あるいは鉄・塩・米などの生産に従事した擦文文化の労働者が製作(三浦 2004)、もしくはそれらの生産物を求める擦文文化の交易者が製作したもの(天野 1987)などの見解がある。」

「いずれも北海道ではなく、北東北における製作-在地の「蝦夷」社会に、擦文文化集団が混在しているという状況を前提とした説であるが、その場合、北東北に短期・長期に滞在する北海道擦文文化に属する人々の製作、もしくは北東北に代々在住する擦文(系)文化に属する人々の製作、という2ケースが考えられる。擦文(系)土器の観察所見からの想定を考え合わせるならば、B地域においては前者のケースが、A地域とくに下北半島などにおいては後者のケースが主体であったと仮定したい。」

一般社団法人日本考古学協会2016年度弘前大会第Ⅱ文科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「北東北の擦文(系)土器」齋藤 淳 平成28年10月14日 より引用…


出現理由を仮説した三氏の論文を筆者は見ていない。
だが、ルート上に傾向が出る事から、理由が地域性を持つ事になるであろう事は有り得るだろうと考える。
そして、前項の様に、三氏が天災避難に言及している事を祈るばかり。
天災の影響があるなら、齋藤氏の仮説の根拠が強くなると思われるが。

ただ、擦文系のムラが出来た訳ではないので、移住があっても、長・短期滞在なのか?緩やかに同化したか?のどちらかと考えられるのは、前述のブログで指摘した通り。
で、この後に防御性集落も擦文(系)土器も消える…そう、より力を持つ安倍,清原氏軍事貴族達により束ねられると考えるのが妥当だろう。
お陰で物流拡大が進んでいく訳だ。と、地図化すれば解りやすいが、このA,B地域全てを抑えきったのは、秋田城、奥州藤原氏、後の十三湊(津軽)安東氏の三者のみ。
他はA,Bそれぞれしか抑えられていない…通史で見る場合、その辺を踏まえる必要はあるだろう。
北海道でも地域性が出ても当然なのだ。
特に日高を境に東西に分かれるのは、想像に優しいだろう。
受け手側の体制が全く違うし、交易物品の質も変わるのだから、一様な訳は無い。
そして、北海道と東北は、繋がったままなのは、間違い無い。

ましてや、食文化や竈が無い等文化が違う。
出土記録を見る限りでも、擦文文化集団は雑穀や魚類がメイン。更に「塩」まで使うのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/19/184154
鯨や海獣をバンバン食う人々の侵入。
擦文→アイノとは考え難いだろう。

以上、三項に渡り報告資料を紐解いてみた。
これら知見も踏まえ歴史文献を読めば、また北海道通史の見え方も変わってくると思うが…どうだろうか?

時系列上の矛盾…ではなく…考古学専門家が指摘する「北海道~東北の関係から見る、擦文文化の形成過程」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/21/144647

さて…前項に続き「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集からの引用を継続しよう。
「北海道地域の動態-交流・交易を中心として-」と言う事で、報告がなされている。


「北海道では8世紀を画期として、それまでの続縄文文化の土壙墓とは全く特性の異なる末期古墳が構築される~中略~東北地方北部と同様の特性を持つ末期古墳と、続は文化の土壙墓の特性に加え末期古墳の特性を受けいれた土壙墓の二系統からなる形態の変容が見られるようになる。」

「このことから、北海道の末期古墳は北海道在地の集団ではなく、末期古墳を構築する技術を持つ東北地方土師器文化集団が北海道に移住・往来し築造したものと考えられる。」

「北海道では8世紀を画期として、土器の形式とともに器種組成様式も大きく変化する~後略」

「墓制・葬送の変化は、続縄文文化集団が北海道に移住・往来した東北地方土師器文化集団の墓制・葬送を受け入れ、擦文文化の墓制・葬送へと移行していく過程を示すものである。」

「北海道における擦文文化期の竪穴建物跡の分布をみると、8~9世紀の竪穴建物跡の分布は石狩低地帯の石狩川水域下流域に集中している。10世紀の竪穴建物跡の分布は、北海道北部の日本海沿岸河川河口部や石狩川水系中流域に拡がり~中略~11世紀の竪穴建物跡の分布は、前代までの地域に加え北海道北東部のオホーツク海沿岸河川河口域や北海道南部~東部の太平洋沿岸河川河口域にみられ、北海道全域に分布が拡がっていく。」

「8世紀後半~9世紀は、石狩低地帯の石狩川水系河川下流域が北海道における物流の拠点的な地域として、優位性をもち、この地域の擦文文化集団と、律令国家勢力あるいはその勢力下の東北地方土師器文化集団との秋田城を通じた「日本海ルート」による物流・交流が展開する。このことは、この時期の須恵器や鉄製品の物流などから明らかにすることができる。」

「一方、北海道と秋田(出羽国)との関係については次の史料からも裏付けられる。『続日本史』~中略~『日本三代実録』~中略~『類楽三代格』~中略~出羽国秋田城を通じた「日本海ルート」による物流・交易が展開し、本州産鉄器、須恵器などと北海道産毛皮類との交易が行われていたと考えられる。」

「(筆者註:10世紀以降)、この時期には北海道と東北地方北部(青森)との物流・交易が活発化し、「日本海ルート」に加え「太平洋ルート」による物流が展開していたと考えられる。また、10~11世紀の鉄製品の分布も須恵器と同様に北海道全域の遺跡に拡がる。この時期、東北地方北部(青森)において鉄生産が活発化することから、鉄製品についても須恵器と同様に東北地方北部(青森)を主体とする地域から北海道にもたらされた可能性がある~後略」

「また、この時期に北海道太平洋沿岸域や石狩低地帯を中心に錫杖状鉄製品や銅椀など密教(雑部密教)系の儀礼具と考えられるものが流入している(鈴木2014a)。このことは、本州の物流経済的な影響だけでなく密教(雑部密教)などに関わる東北地方北部で在地化した儀礼や信仰までが北海道の擦文文化集団に影響を及ぼしたことを示すものと考えられる。」

「さらに、11~12世紀には北海道の擦文土器と同様の特徴を持つ土器が、東北地方北部にもみられるようになり、これらの地域間に人的、文化的な交流が発展していたことがわかる。」

「一方、この時期の東北地方北部では、鉄や須恵器、米、塩などの生産が活発化し、これらが北海道向けの主要な交易品として~中略~この物流・交易を担っていたのは、東北地方北部の土師器文化集団であると考えられ、交易の富をめぐる集団間の争いなどを背景に集落を壕や土塁で囲郭した防御性集落が成立していくものと考えられる。」

「しかも、この時期には安倍氏清原氏あるいは陸奥・出羽守や鎮守不将軍などの軍事貴族が北海道の産物を都の有力貴族に提供していたことがうかがわれる。」


一般社団法人日本考古学協会2016年度弘前大会第Ⅱ文科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「北海道地域の動態-交流・交易を中心として-」鈴木琢也 平成28年10月14日 より引用…


要約すれば…
①東北のエミシの移住(墳墓変遷より)
②続縄文の文化が変わる(土器変遷より)
③エミシの土師器の影響で擦文土器が生まれる
④秋田城を介した「日本海ルート」完成
⑤東北の製鉄,須恵器,米,製塩の生産拡大
⑥物流拡大により「太平洋ルート」完成
⑦北海道全域に鉄器,須恵器拡散,密教流入
⑧東北の土豪が防御性集落を作る
軍事貴族の台頭

これが8~11世紀の考古学見地からの北海道~北東北の歴史の流れだと指摘している。
考古学の見地なら、これが当然なんだろう。
全く持って同意。
北東北での鉄器等の拡散も、「元慶の乱」の影響であろうと我々も考える。
これらのどれが抜けても「擦文文化」は完成しない。ここまではっきり指摘している。
因みに、この報告をしたのは「北海道博物館」の方。
古書の記載も含め指摘しているので、淀みが無いし、根拠もはっきりしている。

これは新北海道史における「先史時代」の事ではある。
が、そんな事は関係ない。
そして、この時代、「アイノ文化」の痕跡はまだ無い。


だから我々は言う。

北海道と東北は、古代から繋がっている。
それが切れた事は無い…と。


だが、敢えて言えば…
我々的には、まだ足りない物がある。
何故、エミシの移住が始まったか?
そう…鉱物資源ではないか?だ。
実は、秋田からの報告では、鹿角,花輪地区の竪穴住居数は、他の秋田の地域より多い。
尾去沢鉱山開山の伝説もまた8世紀なのだ。

「ゴールデンロード」…
北海道~東北~都へ繋がるこれが足りない。
まだ見えぬこの道をまた通じているだろう。
勿論、これは我々の妄想に過ぎない。

まだまだ先は長い…

時系列上の矛盾…北東北の研究で示唆出来る「蝦夷の人々」の降灰退避(追記あり)

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436

しばし続けている「時系列上の矛盾」…北海道の発掘調査報告書を紐解いているが、元々我々は「北海道~東北の関連史」の視点。
ここいらでこの視点を突っ込んでみよう。
2016年の日本考古学会弘前大会の報告資料集である。
「北東北9・10世紀社会変動」について、各研究者からの報告されたもの。
実は、この文献は筆者がある方から譲って戴いた物。
その方には感謝しかない。
「時系列上の矛盾」では、火山灰層を年代基準としているので、その延長線と考えて戴ければ。


「10世紀前半から中葉とする時期は、県内太平洋側(筆者註:青森県)とりわけ上北北部地域において重要な画期となる時期である。それまでほとんど空白であった六ヶ所地域、少し遅れて野辺地湾周辺にも集落が見られるようになる。」

「この頃の歴史的な動向に、915年の十和田火山の噴火がある。扶桑略記には延喜15年(915)に出羽国で降下火山灰による農作業の被害が記録されているが、十和田火山東方の南部地方にあっては、被害がこの程度では済まされなかったことは容易に推量できる。」

「10世紀中葉には白頭山の噴火による降灰が県内一円に確認される。文献資料や火山学、地質学等の成果を渉猟した船木は、この降灰による気温の低下、降水量の減少が北東北世界に与えた影響の大きさを指摘する。一方これらの二つの火山灰(十和田aテフラ(To-a)と白頭山-苫小牧火山灰(B-Tm))の竪穴建物への堆積パターンから建物跡の廃絶時期を求め、青森県域における平安時代の集落の消長を明らかにした丸山も、上北地域において十和田火山噴火と白頭山火山灰降下の影響による住民の避難行動があったと指摘する(丸山 2011)。」

「地域別に見ていくと、上北南部(奥入瀬川流域)は3期から建物数の落ち込みもさることながら、4期で断絶する集落の多さと5期以降の集落数の減少が顕著である。一方上北北部のうち七戸川流域では、4期を自発的とした集落が安定して継続する。」

「10世紀中葉以降、奥入瀬川流域では切田前谷地遺跡No.14が前代よりも内陸に入った丘陵地で、また七戸川流域では赤平(3)遺跡や内蛯沢蝦夷館No.23て、堀や区画溝を伴ったいわゆる「防御性集落」が出現する。」

「その後十和田火山噴火後(5期)には集落・建物数ともに爆発的な増加が見られ、前代の集落が継続すると同時に、新たに標高25~40mの緩斜面地(上尾駿(1)・(2)遺跡No.43・44)や標高60m前後の急斜面上の段丘(弥栄平(4)遺跡No.45、沖附(1)遺跡No.46)にも遺跡が形成されていくが、7期までには集落が激減し、居住痕跡は確認できなくなる。」

「野辺地湾沿岸域では、4期以前(To-a降灰以前)の確実な例はなく、集落が見られるのは白頭山降下直前段階からである。白頭山降下後は二十平(1)遺跡や向田(35)遺跡のようないわゆる「防御性集落」が出現するが、二重の壕で集落全体を囲み、内部居住区で複雑に重複し合う二十平(1)遺跡と、段丘斜面と上位平坦部での棲み分けや、区画溝による整然とした集落配置の中で建て替えを見せる向田(35)遺跡は、同時期同地域の集落とは思えないほどに対象的である。」

「出土遺物から二十平(1)遺跡は製塩業を担った集団、一方向田(35)遺跡は擦文土器や家屋墓、その他文物(ガラス玉、北宋銭)に北方との交易に従事した集団の違いが想定されるが、第一次産業(製塩)を担った集団と第三次産業(交易)に従事した集団の違いが、動産や不動産あるいは、集落選地や経営(経営方法や維持管理のルール)の差にも現れた好例である。」

一般社団法人日本考古学会2016年度弘前大会 第Ⅱ分科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「青森県域の動態②太平洋側」 加藤隆則 平成28年10月14日 より引用…

この研究報告では、十和田噴火や白頭山噴火降灰により寒冷化らが起こり、十和田川流域ら、十和田より東側ら影響甚大であろう地域から生活痕跡のない野辺地方面への避難移動を示唆している。
同時に、ここで擦文土器やガラス玉らの流入が、新規移住先である野辺地方面の遺跡から出現している。
ここにある二十平,向田両遺跡共に野辺地。

で、擦文土器らが出土した向田(35)遺跡、その集落での住み分けがされていると言う。

勿論、仮説レベルだが…
今まで紐解いてきた北海道の擦文期でも、苫小牧火山灰層は存在しており、影響は想定出来る訳で。
これも北海道に於ける、苫小牧火山灰からの避難による移住だとすれば、下記の様な事は起こってくる。

①降灰…
②特に被害が大きいであろう胆振~十勝周辺の人々が避難移住で、船で南下…
③幾つかの集落は空に…
④ここで、オホーツク系,北方の人々が流入する為のスペースが出来る…
と、言う訳だ。
当然、留まった人々が居れば、その人々に同化するべく、 共生が起きるだろう。

そしてこれは10世紀の話。
13~14世紀に書かれた「諏訪大明神画詞」の段階での日ノ本,唐人と繋がっても矛盾ない。
日ノ本,唐人が12~13世紀に流入したならば、むしろ辻褄が合ってくる。
そして、擦文土器は、秋田の能代にもあるので、北海道から回避した幾つかの集団は北東北で同化していった…
どうだろうか?
これなら北方からの流入も含めて矛盾は無く説明可能と考える。

で…
江戸期の有珠系火山の爆発…
これでも同様な事は起こり得るだろう。
北海道から回避した人々は、元々津軽,南部の人々が住んでいる集落の外郭に住み始めて、後に藩籍を入手し同化。
当然、その空いたスペースには、ロシアの南下で追われた人々が流入しうる条件が出来上がる。
それがこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443

そして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/11/185110
組み直した新北海道史とも合致可能である。

どうであろうか?
それぞれ、まず天災からの回避移動。
短期間で行われたであろう。
これなら、擦文文化とアイノ文化が繋がっていない理由としては充分だと思われる。
アイノ文化が、本州の物資依存している事もなんら矛盾はない。
何せ、元々松前藩蝦夷地の運営には不干渉的だ。
「無為に治める」…乙名を任命して、知行地収益が上がれば問題視しないだろう。
そして、ロシア南下が顕著になり、幕府直轄時代を迎える。


さて、擦文(平安)期に話を戻せば、その頃から、東北では地方豪族が力を強め、安倍,清原氏が台頭、そして奥州藤原氏が治めて行く。
移住した人々を足掛かりに、渡島半島~道央~胆振に勢力を伸ばすのは、その武力らも含めて簡単だろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/053050
ここにも、矛盾は無い。


まぁ妄想、仮説レベル。
だが…矛盾は無く、説明可能だ。


追記…
尚、同書からの引用を下記に付け加えておく。

「上北地域への移住の背景としての北方交易(佐藤 2004)について、擦文土器や家屋墓、その他一般集落では通常出にくい文物(ガラス玉や北宋銭)を出土する向田(35)遺跡に南北交易の生産・中継地しての機能を、また二十平(1)遺跡のような製塩業を営む集落に、自家・地域消費以上の交易品の姿を見ることもできるが、一方で六ヶ所地域のように必ずしも擦文文化との交流を積極的に評価できず、また現状で馬産などの主要産業の痕跡を確認出来ない地域もあり、北方交易と直接的、間接的に関わった集落も、そうでなかった集落もあったものと思われる。新興集落の進出理由は上北北部でも一様ではなく、集団移動の背景としての北方交易は、数ある背景の一部を指摘したものと評価できる。」

一般社団法人日本考古学会2016年度弘前大会 第Ⅱ分科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「青森県域の動態②太平洋側」 加藤隆則 平成28年10月14日 より引用…

痕跡は陸奥湾側で、太平洋側では顕著ではなく、この段階での交流は、土豪の判断により「限定的」なのだ。
また「塩」を交易材料に使った可能性も、無くはない。


参考文献:
一般社団法人日本考古学会2016年度弘前大会 第Ⅱ分科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「青森県域の動態②太平洋側」 加藤隆則 平成28年10月14日

時系列上の矛盾…「十勝太海岸段丘遺跡報告書」に記される蝦夷の人々の姿

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/19/203842

さて、「十勝太海岸段丘遺跡」の発掘調査報告書について、もう少し書いてみたい。
この報告書は前項で書いた様に、種々内容について記載されている。
本文中にも、古書で「十勝」がどう描かれているか?等、地域史書として細かく調査,記述している。
その中に、同時の蝦夷の人々についての記述があり気になった事があるので、引用してみよう。


「古文書等に見えるもっとも古い地名「トカチ」は、1635(寛永12)年の『松前旧事記』に見える「戸賀知・運別、産金の業を興す」の記事である。この「戸賀知」は現在の大樹町相保島付近または紋別川上流付近、「運別」は現在の日高管内様似町付近をさすものと考えられており、現在も採金跡が残されていると言われている。」

十勝川河口の地である「トカチ」が文献上に登場するのは1643(寛永20)年のことである。それは、金銀島探険のため日本近海を航行中、八丈島付近で遭難し、蝦夷沖に漂着したオランダ東印度会社のカストリクム号司令官マールテン・ゲリッセン・ド・フリースの『日本旅行記』や船員の証言によってである(児玉、1971・北構、1983)。この旅行記は、17世紀中庸の東蝦夷地の様相を伝えるものとしてよく知られているが、トカチプト関係分を要約すると次のようになる。」

「前略~ここでの土地最初の舟が本船を訪れたが、その中には二人の男と一男児が乗っていた。彼らは身体にたくさんの銀を帯びていて、我々に銀が豊富にあるという山々をさし示した。舟には大鹿の皮2枚と若干の干鮭があり、身には麻の粗衣とその上に毛皮衣をまとっており、二人は耳に孔をあけて紐を下げ、一人は金と銅が混った耳輪を下げていた。また弓と矢を持ち、腰には銀作りの柄の刀子と銀装の腰刀を下げていた。彼らは金と銀のことをよく知っていた。また、自分たちの矢がよくできていることを自慢していたが、そのうちの若干のものには毒が塗られてあった。彼らの小舟は前端と後端が扁平になっており、楷は幅狭いものであった。彼らはカストリクムの甲板に来るといろんなことを言っていたが、その中で「タンバコ」という言葉だけがわかった。そして司令官に大鹿の皮1枚と塩をしていない干鮭をくれた。この民族は身体はズングリしており、皮膚は褐色であり、黒い粗剛な髭があり、全身には毛がたくさん生えて黒くなっていた。また頭の前半は剃っており、後半は頭髪は長く垂れ下がっていた。フリースはこの地方のことについて尋ねたが、蝦夷人は西微北を指してそこに彼らが住むといい、これをタカプチーTacaptie(トカチ)と呼び、また急峻な岬をグローンGroen(エリモ)、河の注ぎ湾をグウチャルGoutsiaer(クッシャロ)、さらにまた北東の方向にシラルカCyrarca(シラヌカ)およびグウチオテGoutsiote(クシロ?)というところがあるなどと答えた。」

「また、同船の乗組員の供述記録には、「エゾ島には、次に挙げるような人口の多い集落がある。マツメイ、シラルカ、トカプチー、クチュリ、グローエンアッケリス、ウビツポロビツ、ソボッサリ、クローエンウチョイラ、エサン、シロカニ、しかし、これらの集落あるいは町は、クチュリの住民によれば、次のように呼ばれている。マトメイ、コンプソ、パスクル、ハーペ、トカプチー、アブネイ、サンペツ、ウビツ、クローエン、シラルカ、サロ、クチュリ、アッケイス。」とある。これらの記事中、「タカプチー」または「トカプチー」とあるのが、十勝川河口集落のトカチ(プト)であり、「アブネイ」とあるのが現在の「厚内」である。」


「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日 より引用…


地名の部分は、方言があるのか?聞いた人の聞こえ方の問題か?不明だが、微妙に違う様な節がある。

それは置いておいて…
実は、同じ様に外国人で蝦夷の人々に遭遇し、記述を残している人物が居るのを、以前教えて戴いた。
イエズス会のアンジェリス神父である。
1621年との事。

https://twitter.com/gurinhiguma/status/1272345677398302720?s=19

・強健で身長は高い
・男女ともに日本人よりも色白
・時々長い髭をもっている
・容貌は醜くなく、体躯はよく均整がとれる
・男女共耳に穴をあけ耳環をしている
・酒に強く、飯に海獣の脂を掛ける etc.

肌の色艶や体躯…
フリースの記した風貌と、アンジェリスの記した風貌が微妙に違う。この間約20年。

ただ、フリースが記した風貌なら、林子平が記録したものや…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/16/193257
蝦夷人種痘の図」に描かれた蝦夷の人々と似てはいる。

さて、他の特徴では、
頭の髪を纏めるマタンプシがない…
麻の服の上に、毛皮…
この二点は、近世アイノと不一致か?

耳飾りを付ける…
エムシと思われる刀…
蝦夷太刀だけみれば、この1号墓の埋葬者のグループに近いと思うが。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/02/184205

似ているが少しずつ皆違う。
ふと、考える。
この段階で色々な人々の集合体で、文化面で共通部分が多いのか?…と。
まぁそれはそれでも我々としては困らない。
元々我々は…
蝦夷=アイノではない、蝦夷にアイノは含まれる」と考えているので、全く驚きはしない。
変な話、秀吉の「バテレン追放令」で逃げて来た南蛮人だって混ざり得る可能性すらあると考えている。

一応、この古書は、降灰の前になる。
勿論、アンジェリスの記載も降灰前。

そして前項の通り、文化的には「送り場跡」等北方の影響色が強くなるが、物質的経済的には本州の影響色が強くなる。

さて、真実は如何に?
まだ、決め手は無い。


参考文献:
「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日

時系列上の矛盾…「十勝太海岸段丘遺跡」にある浦幌アイノの痕跡と火山灰の壁

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108

「時系列の矛盾」を続けていこう。
今回は、浦幌町にある「十勝太海岸段丘遺跡」の発掘調査報告書。
実は、取り寄せたには理由がある。
浦幌と言えば…
https://news.yahoo.co.jp/articles/0a2a3c580a983d115422c19dd3b70b3e68238dd3

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200920/amp/k10012627971000.html?__twitter_impression=true
こんなニュースが昨今流れていた。
昨今、白老の「某施設」の活動に呼応して、活発に活動されている様なので、なら浦幌の昔の姿はどうなのか?興味が湧いたと言う、筆者の個人的興味による。
実はこの報告書は、本編だけではなく、写真や付篇も合わせると450頁におよぶ大作で、それだけ、歴史に対する意識も高い証左で、頭が下がる。
なので、引用より先にダイジェストでざっくり説明しよう。

①位置と経緯…
浦幌十勝川河口付近の河岸段丘にある。
元々、十勝川本流の河口であり、河口北岸にはチャシ跡や遺跡が並んでいる。
概ね擦文文化期の竪穴住居らが多く、数十~数百基に及ぶ。
「浦幌太河岸段丘遺跡」はその最も東側に位置し、河口部分に当たる。
国道336号線の延長に伴い、遺跡の発掘らを行ったと言う事の様だ。

②基本層序…
Ⅰ層…表土。
Ⅱ層…火山灰。これは1667~1739年迄の三度の噴火の痕跡で、基本混ざり、位置によりそれぞれ分かれる。
Ⅲ層…腐植土。
Ⅳ層…ソフトローム(Ⅲ層の影響あり)。
Ⅴ層…ソフトローム(褐色系)。
Ⅵ層…ハードローム
Ⅶ層…シルティクレイ。
Ⅷ層…灰白色粘土層
やはり、白老同様、Ta-b火山灰層ら火山灰の影響を受ける。

③遺跡の概要…
では引用…
「3ヶ年間にわたる調査で、住居跡6、土抗27、焼土23、礫群7、集石8柱あなた方列5、柱穴(遺構に伴うものを除く)358、物送り場跡1、塹壕7、フレイク集中1、海砂堆積1の各遺構を検出し、発掘した。」
国道336号敷設によって発掘対象地区となった範囲は、おおむね延長で500m、幅員方向で幅広い個所で50mに及ぶが、必ずしも擦文集落たる遺跡の中心部を調査したものではなく、むしろ集落の脇部分を調査したと考えられるものである。」
「発掘区内の地層は長年にわたる耕作や乳牛の放牧地、地域のごみ捨て場となっていた部分もあり、表土や腐植土が失われていて、本来の様相を示していない場跡も認められたが、中央部の沢部両脇を除いてはおおむね調査に耐えられるだけの状況を保持していたと言える。」

「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日 より引用…

竈や地炉を持つ竪穴住居6基を初めとして、それに伴う擦文土器,紡績車らが出土遺物の中心で、住居跡は、主にⅢ~Ⅳ層。
包含層からは、縄文土器、擦文土器らの他に内耳鉄鍋,刀子,渡来銭,釘らから、現代のコーラ,ビール瓶からボルトや学ランのボタンら昭和の物まで揃う。
縄文~昭和迄の歴史の縮図…。
塹壕は、旧陸軍が北海道防衛の為に築かれた物で交通壕の様だ。実は、従来「十勝太海岸段丘チャシ」とされる物も含んでいたが、これはこの塹壕跡の一部の様で、報告書では、これはチャシではなかったとしている。

覆土の状況やそれぞれの遺構,遺物に対する考察、付篇らかなり細かく記載されている。
当然、他の報告書同様、アイノ文化への関連性を中心に他の遺跡との関連性を見出だす手法ではあるが。だが、細かく調べている。
THE報告書である。


さて、塹壕らも気にはなるが、我々は「北海道~東方の関連史」の視点。
それらは割愛し、シリーズ化した「時系列上の矛盾」について述べよう。
さて、「物送り場跡」…これ何?
と言う訳で読み進めたが、どうやら、アイノ文化の一端である「食べた動物の骨を捨てた宗教的痕跡」と言うべきか。
早い話、これが積もり積もると「貝塚」として検出される模様。
ここでは、カレイやヒラメの骨を中心に、鮭やウグイらに混じり、クジラ,海獣、貝、鳥迄揃う。
竪穴住居に付随した焼土跡からは、昨今紹介している雑穀らが出土。
クジラは考察に於いて、シャチに追われ砂浜に打ち上げられた「寄鯨」を捕ったのが一般的で、古書にもそれは記載される様だ。

では、引用してみよう。
「概況:第4号住居跡の埋まり切らない凹みの北東斜面から検出。第4号住居跡は、近年の二次堆積により埋覆されていたが、二次堆積と本来の表土の上面を除去した段階で検出した。初めはカレイ骨を主体に若干のクジラ骨、エゾバイが鉄鎌、骨鏃とともに出土しているに過ぎなかったが、掘り進むに従って焼けた獣骨が出土、最下層からは80数個のエゾバイが殻口を下にして伏せた形で出土し、そこにはシカ角、中柄、シロガイが含まれていた。」
「層序:図36(71p)に示したように、物送り場は最上層に薄いカーボン層を含む本来の表土(Ia)とその下層の火山灰を点在させる10YR2/2の黒褐色腐植土中に含まれている。その層の竪穴中央付近では、上層から樽前a火山灰(Ta-a)、駒ヶ岳c2火山灰(Ko-c2)、樽前b火山灰(Ta-b)火山灰が整然と堆積しており、物送り場の最下層は樽前a火山灰よりも上層に位置している。」


「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日 より引用…

確かに図でも確認したが、この「物送り場跡」は、竪穴住居の覆土の途中で「火山灰層より上層」で止まっている。
で、この遺跡の年代を特定可能な擦文住居跡らでは、アイノ文化に通じる様な遺物は…「無い」。
ガラス玉らはあるが、包含層の内、これにはコーラ瓶らも含まれており、擦文住居跡らとの関連性は謳えないと言う訳だ。
無いのです、擦文文化とアイノ文化を繋げる物が。

確実に言えるのは、アイノ文化を示すであろう可能性がある遺構は「火山灰層の上」にあり、火山灰が降り積もった跡である…これだけ。これは確実。
だが、擦文遺跡までは土層、何より火山灰層を隔ててる。
二つの文化が直結すると断言なんか…ムリ。
アイノ文化人が火山灰層よりも前から此処にいた確証は無いのです。
「降灰後に戻った」とも言えるし、「全く別文化の人々が入り込んだ」とも言える。
決め手は無いのです。

ちゃんと擦文を中心に、アイノ文化の痕跡も残る貴重な遺跡。
純粋に凄い複合遺跡です。
大事にしないと。
ただ…
その「アイノ文化の痕跡」は、火山灰層の上部迄しか遡る事が出来ない「だけ」の事で、ちゃんと江戸中期迄遡れます。
なんの問題も無いのです。
何せ、土地を取り上げたのは「明治政府」なので。
これが江戸幕府松前藩を、その対象にしていない事が「ミソ」と言う訳だ。


我々グループは「アイヌ推進法」に疑問を持ち、集まった経緯がある。
さて、これで「文化が繋がってない」と指摘した場合にどうなるのか?
ない事を証明するのは「悪魔の証明」。
この場合、「ある事を証明」しなければならなくなる。
つまり、「擦文文化とアイノ文化が繋がっている」と主張した側が証明責任を追う訳だ。
簡単なんです。
「繋がっている物証を持ってこい」…一言で終了なのです。
我々は一年以上前から使っている…「物証を持ってこい」…と。
これが無ければ、「先住民族」なるものを立証不能なのだ。

現状はない。
ないから、各学者や教育委員会が探しているのが実態でしょう。

博物館や資料館で使ってみて下さい。
「物証はあるのか?」…と。


参考文献:
「十勝太海岸段丘遺跡-国道336号浦幌道路2工区改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 浦幌町教育委員会 1998年3月13日

時系列上の矛盾…白老の蝦夷の人々が逃げる前の姿の一端

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/16/185453

「時系列上の矛盾」白老版その2である。
前項のテーマが「君は生き延びる事が出来るか?」であれば、今回は「じゃあその前は?」である。

実は、全然関係ない目論見で発注していた古書が届いた為、サラリと読んでみたが、有珠系統の降灰直前の「白老」の一端が見える部分があったので、少し紹介。


「前略~現在は耕作地となっている~中略~段丘の畑地および海岸に面する斜面からは従来土器片や石製品が発見されていた。しかし地表面には竪穴らしい窪みも貝殻の散布もない。」

「本遺跡の層位関係~中略~(1)腐蝕土層-(表層)-一〇糎、(2)砂粒状の軽石層-六糎、(3)腐蝕土層-四五糎、(4)指頭大の軽石層-一五糎、(5)腐蝕土層-四六糎(上半二五糎、下半二一糎)、(6)褐色砂層-六糎、(7)腐蝕土を混ずる暗褐色砂層-一五糎、(8)褐色砂層-一三〇糎、(9)岩盤、となつている。」
「地層(1)より(4)までは全く遺物が包含されず、(5)の上半部に於いて須恵器および擦文式土器と少数の恵山式土器が包含されており、(5)の下半部と(6)および(7)の上部にわたり恵山式土器のみが包含されている。」

「また(5)の上部、即ち(4)の直下に和舟の破片が発見された。数本の舟釘と、舟釘から生じた酸化鉄によつて、汚染をうけた結果残された木質部の数片とである。」

「この和舟の破片は明らかに土器包含層中に横たわつており、(4)の軽石層によつて覆われていた。したがつて少なくとも火山灰有珠C統より古く、本道における和舟の最古の資料と考えられる(第四図・第五図)。」

「北方文化研究報告 第十七輯 昭和三十七年三月発行 別冊 アヨロ遺跡」 名取武光/峰山厳/石川修次 より引用

はい…
ここは「虎杖浜アヨロ遺跡」。
白老町虎杖浜にある。
この発掘は昭和28年11月1日より3日間行われたの事で、虎杖浜遺跡の発掘は、ここから始まったと言う訳。

要約すると、降灰前までの状況は土器から推定されているのが…
続縄文→擦文と緩やかに変遷されていた様に見受けられる。
ここでは鉄器の出土は無かった…唯一和舟の船釘を除いて。
さすがに昭和28年の報告なので、科学分析もないし、この段階で遺構も見つかってはいないので、報告書自体は至極簡潔。
ほぼ、土器に対する説明で、土器傾向で編年経過を追おうとした旨が伝わってくる。

で、降灰とその前の地層に横たわる様に「和舟」が横たわっており、これが降灰の直前だろうと言う事になる。


アイノの舟は構造船とか聞いた事はあった。
だが…
どうやって釘を作る?
どうやって加工道具を作る?
どうやって板を切り出す?
どうやって水漏れぬ様に組み立てる?
仮に大陸の影響だと説明しても、これ「和釘」だから「和舟」と指摘してるのだろう。
加工道具と加工技術の「歴史」を舐めないで頂きたい。

何よりの問題は、ここが他の地ならばいざ知らず、「白老」である事なのだ。
この出土状況だけで導きだされるのは、降灰前までここに住んでいたのは、擦文文化人の末裔で、「和舟」の使用からそれは東北の文化に近い文化を持っていたであろう事。
船大工がこの地に居たかは「解らない」が、良くて東北系文化とアイノ文化の共生、悪くは東北系文化の単独…
そう言えば、以前ニュースらで見た「復活させたアイノの船」は…丸木からの削り出し船船。
なら、「白老」は別文化であったと言う仮説「も」成り立ってくる訳だ。


筆者は深くアイノ文化を調べてはいない。
発掘調査報告書を読んでいるだけ。
故に、現在の「仮説」のフィルターは、全く掛かっていない。先入観「〇」
ただ、公的調査の紹介をしているだけ。

これは一つの事実である。


参考文献:
「北方文化研究報告 第十七輯 昭和三十七年三月発行 別冊 アヨロ遺跡」 名取武光/峰山厳/石川修次