ゴールドラッシュとキリシタン-29…近代北海道にもゴールドラッシュは発生していた。そして…

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/11/173848
さて、近世以前での金採掘については、幾つか話をしているが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/20/185409
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/16/201849
明治以降、近代においても金の話は地方史書に幾らか記載がある。

今回はそれをピックアップしてみよう。
北海道の採金は「寛文九年蝦夷乱」を理由に一時停止に至る。
その後、例えば天塩の羽幌の海浜での砂金発見らで松前藩吏と鉱夫が派遣されたが、反乱風説や採掘量の問題であまり盛況を見ることはなかった様だ。
似た話は「新北海道史」や各市町村史にも記載はあるのでご確認戴きたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/14/201205
元々、「赤蝦夷風説考」でも北海道には鉱物が豊富だという事は記述され、後の時代も検討事項になっていた事は推測に易しい。
では本題。
「北辺のゴールドラッシュ」と言う著書による。

①雨宮砂金採取団…
「雨宮敬次郎」が率いた金堀衆。
甲州の方で、むしろ「投機界の魔王」と言った方が有名なのだろうか?
明治19年頃、「榎本武揚」に掛合い、道内の鉱業実力者「山内提雲」に働きかけ道南~石狩の採金許可を取ったそうで。
が、問題は金堀衆。
雨宮家へ出入りしていた山形の古物商「佐藤清吉」へ相談。
そこで目をつけたのが山形は寒河江の「小泉衆」。
月山から最上川へ注ぐ寒河江川流域では、古来より砂金を取っていた。
これは筆者も2年位前に「寒河江市郷土館」で採金道具の展示をしていたのは確認していた。
が、当然古来からの砂金場としても、明治初期にはほんの少ししか取れぬ様になっていた。
基本的に寒河江は肥沃故に専業農家が主。小泉衆は多くが小作で、当然生活が苦しく、砂金から得られる収入は貴重で、中にはそちらを専門にする者が。
少ない砂金をより多く集める為に、技術が高まった様だ。
その中に「菊池定助」と言う親方がおり、その人物に声を掛けた様だ。
ここでの条件は菊池定助にとっては破格。
旅費,食費ら経費一切は雨宮家持ちで、報酬は当時の金額で15~20円/月で3ヶ月分の前払い。但し、帰国の際に服装,荷物検査をしても文句を言わない事。
当時、小作での収入が一年で10円だった様なので、およそ桁違い。
菊池定助親方率いる小泉衆は、国縫から利別川へ入る。
最早薄くなった寒河江川で鍛えられた金堀衆はいともあっさり砂金を掘り当てたと言う。
月給制なので採った砂金は全て菊池定助→佐藤清吉→雨宮敬次郎と渡るだけ。
金堀衆にとってはかなり気楽な労働だったらしい。
何より菊池定助親方の指導が厳しく且つ的確で、参加した者達も半年間位で一人前になったとか。
で、3回目の採金の時に、途中に入っていた佐藤清吉の変わりに若い監督がついたが、この人物が2貫目の砂金を持ち逃げ、保証された食料を送らず採金団は飢餓寸前となり、小泉衆や菊池定助親方と雨宮の関係がギクシャクし破綻し、縁が切れる事になる。
翌年から、菊池定助は親方から外れ、佐藤清吉が直接率いる事になるが、菊池定助に鍛えられた金堀衆はその技術を発揮し、気合の入った者は日高の沙流川新冠川らにも探索。
トナシベツ川の大砂金場を発見するまでに至っていったそうで。
この辺で噂を聞きつけた素人の密採者が増え始め、当局も厳しくなってくる。
鉱区主を名乗る者が佐藤清吉に書類不備を指摘し砂金と食料を没収。
佐藤清吉は裁判まで戦うが結局敗訴し没落。
親方から外れていた菊池定助に纏められ小泉衆は帰投する事となる。
この後、この採金団はまた北海道に向かうが、既に雨宮や佐藤の様な資本家を失い、お互いが疑心暗鬼で争いが起こる様になり、明治27年段階で解散される。
菊池定助はその後も北海道各地で金堀を続けた様だ。
明治37年、拠点とした雨竜村で息を引き取る事となる。
この、菊池定助に鍛えられた渡辺良作ら小泉衆の技術や経験を受け継いたもの達が、後のゴールドラッシュを牽引していく。
やはり山形県人が数,質で他を圧倒し中軸を成したとの事。
現実的には技術あらば、明治でも北海道で砂金を掘り生業とする事は可能だった事になる。
採れない=技術の差…なのだろう。
因みにどの暮らした採れたのか?
本書には詳細がないが、先述の3回目で持ち去られた「2貫目」を例にして現在の価格の概算なら…
1貫目→3.75kg×2=7.5kg
当時は金が4円/1匁(3.75g)として、
4×2000=8000円。
当時の1円→現在の3800円とすれば、
8000×3800=30,400,000円か。
概ね三千万円…あくまでも指標と考えて戴ければ。
3回目は50名近かった様だが、シーズン途中である事を考えれば、もっと採れたって事なのか。
砂金は純度が高いとはいえ、あくまでも参考。


②枝幸ゴールドラッシュ…
この時代の砂金については「トッド夫人」の予言がつきまとうそうだが、直接関係無いとあるので触れない。
第一発見者は諸説あり。

「もっとも、ネコとカッチャを背負って山深く分け入り、川から川を渡り歩く砂金掘りたちの秘匿された行動か、大漁に酔っている村民の眼にとまる機会は極めて稀であった。」
「しかし枝幸砂金の黄金時代をもたらす動機は三十年以降の惨憺たる不漁であって、この不漁こそが砂金発見の立役者であるということ、また飢餓に駆り立てられた窮民の山野を彷徨するさまが、大時代な文章の背後に痛々しいほど感じられる。」

「北辺のゴールドラッシュ」 日塔聡 北海道出版企画センター 昭和57.6.15 より引用…

引用文の間には、明治32~33年頃の新聞報道らの記事が記載される。
著者の記事確認では初見が明治27年北海道庁枝幸郡礼文村のベシトコマナイで金の試掘許可を出したと言うものだそうで、天塩方面から天塩川,名寄川を伝い枝幸方面へ入ったものと考えている様で、騒ぎになる前数年間は暗中模索していた様だとある。
地の人々もニシン豊漁で山には全く注意を向けてはおらず、世相から隔離された状況が明治30年からの不漁で生活が困窮しだした所でそんな金堀衆に気が付き出した…こんな感じ。
噂では「枝幸に砂金がある」と言われていたが、明治31年6月に堀川泰宗が科学的調査で枝幸海岸から幌別川を遡り、「バンケナイ金田」を発見。
ここからゴールドラッシュが開始される。
①7月、未経験者や漁民3~400人の密採者がバンケナイに入り込み1~1.5匁/日収穫
②8月、20人の密採者がウソタンナイに入り砂金場発見、2~30も/週収穫
etc…

「このように誰も彼も砂金熱にうかされる要因の一つは、もちろん希有の凶漁であるが、ちょうど薄漁期に入った明治三十年に金本位制が実施され、これが刺戟剤となったことも見逃すことができない。」

金本位制というのは貨幣価値の単位を一定量の金で決め、法律で金貨を鋳造し流通させる制度である。明治維新の新政府は、幕藩時代のの混乱した貨幣制度を統一するため銀貨を本位貨幣とすることにしたが、世界の大勢から金本位制をとるべきだという意見に圧倒され、明治四年「新貨条例」によって金本位制が実施された。ところが新貨幣は信用がなくて容易に普及せず、日本では金の産出が少ないのに政府が紙幣を濫発したため、金貨は海外と流通以外の面にどんどん流出しはじめた。そこで金本位制の維持は困難となり、明治十一年の布告によって、従来貿易だけに法貨として認められていた一円銀貨を、国内取引にも法貨として認めることになったが、ついに十七年には「兌換銀行法条例」の発布によって銀貨で兌換することを定めた。当時の正貨は銀貨がほとんどで、貨幣制度は事実上銀本位制に移った。しかし、銀の価格は下落しつづけ、金本位国との貿易は著しく不安定な上に資金の輸入も困難とあって、銀本位制の可否が再び議論の的となった。この情勢に対処するため、二十六年貨幣制度調査会が組織され、審議の結果多数によって、貨幣制度の改正と金本位制の採用が決定した。その後間もなく日清戦役が戦勝に終り、清国からの賠償金二億三、〇〇〇万両を準備議論として金本位制をとることとし、三十年三月「貨幣法」を公布、十月から実施した。〜中略〜枝幸砂金の登場は、ちょうど金本位制を実施して、朝野を挙げて豊富な産金を渇望しているときであったから、砂金熱はたちまち燎原の火のように燃え拡がっていった。」

「北辺のゴールドラッシュ」 日塔聡 北海道出版企画センター 昭和57.6.15 より引用…

金本位制は、国の金保有量に比例して紙幣発行するので、産金(保有)能力が紙幣量に効いてくる。
戦争の賠償金やら含め、金保有量は経済にダイレクトに繋がる。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/08/17/195055
我々グループが富や経済、鉱物に拘るのはここ。
人は感情だけでは動かない。
机上の計算や心情で現実世界が動くなぞお花畑もいいところ。
富や利権に触れない歴史家は信用しない。
SNS上、これらを上げてもあまり反応が無いのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/27/200716
これらが如何に重大か?、上記貨幣制度を見て戴ければ解るかと。
経済の行き詰まりは戦争すら引き起こす。
身内同士の金銭トラブルは、他人のとのトラブルより酷くなるのが世の常。
歴史上、金銀銅ら鉱物の産出は他国との関係を見る上で重要。
中世貿易も銅貨輸入は寺社から。
古代から鉱物産出地である「山」を抑え、技術を持つのも寺社。
歴史上の出来事も経済,宗教らは全て絡む…と言えるだろう。
元へ戻る…

「明治さんし、三十一年と追討ちをかけるように襲いかかる不漁も、思いもかけぬ砂金発見によって救われ、冬期の餓死者に備えて親方衆が順にした米噌も取越し苦労に終った。」

「北辺のゴールドラッシュ」 日塔聡 北海道出版企画センター 昭和57.6.15 より引用…

これだけでなく、後も暴風や時化に襲われ漁民は困ったが、ナマコやホタテ,ホッキらが打ち寄せたりして、砂金と合わせ人が集まり活況となったようだ。
また、川岸の大木らは根の周辺が掘られて暴風で倒木、川の流れで根の周辺には砂金が多く溜まっていた為の様だ。
多くの金堀は無許可の密採者だったが、当時の宗谷支庁は元々の不漁で発生する窮民を救う事を重視して、事実上黙認の形を取ったという。
このゴールドラッシュは、枝幸郡だけに留まらず、紋別郡(雄武)らに波及し、不漁であえぐ人々をむしろ潤し、村内は活況を帯び、米噌や酒らが売れ、越年の心配どころか門松を備える始末。
時に数千人の金堀が集まり、春にワラジやツマゴ、アイノの鮭皮のケリだった者達は、秋にはゴム靴に変わっていた。当時ゴム靴なぞ庶民には手の届かぬものだったが。
一時、砂金に真鍮を混ぜて砂金商に売りにくる者が居ると噂は立つものの、元々が不漁による窮民、そんな事が出来る程の余力は無いので、持ち込まれた内の七割は本物の砂金だったという。

事態が急変したのは明治32年度から。
上記の様に宗谷支庁は窮民対策として黙認の立場だったが、本来は明治26年の法施で札幌鉱山監督署経由農商務大臣の許可が必要。
つまり、その土地の鉱山採掘権が無ければ、採取不能。ある意味当然の話。
全道で出願申請ラッシュとなる。
許可を得た者は鉱主となり、一定料金を支払い砂金場へ…こんなスタイル。
申請者も元の枝幸の者だけではなく、稚内・小樽・函館、そして東京と話が拡がるに合わせ拡大する。
更に川筋だけの出願から、一山全ての許可を取る様な話も出てきて大規模化していった。
当然、警察力がまだ弱い地方の事、密採者を弾き出す為に見回りや取締役を雇い、自自費で権益を守ろうとする。
一触即発まで行くようになるが、そこは広大な北海道、締め出しを喰らえば他の場所へ…、目立った暴力沙汰は大々的に報じられていない様だ。
明治32年にベイチャン砂金場が発見され、ゴールドラッシュはピークを迎える。
もはや場所により、採取者が押し寄せ下を向けなくなるとか、食料が尽きた所を他者から砂金で買い込んだ、食える野草が取り尽くされ何も無くなるetc…仕舞に小学校の高等科では「砂金採取の為欠席者多し」とまで記録される。
当然、採取量が多い内は素人でも採れるが少しずつ退潮の兆しは見えて当然な程、押し寄せた模様。
その内、料金は値上され、元々窮民で各地から集まった者はその日暮らし暮らしへ近付いていく。
当然多くは密採者。
役所でも実態が掴めず、当時の正確な産出量は解らないそうだ。
また、当初無かった河水や沿海海水の汚濁問題が発生し、採取期間の設定ら沿岸漁業に影響しない対策が練られたりする。
新金田発見も段々底をつく。
それでも「東洋のクロンダイク」と謳われた噂が先行し、山中には小屋が立ち並び、料理屋や飲食店、床屋に風呂屋,商店、そして白首(ゴケ、売春婦)が集まり市街地が出来ていく。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/15/203519
この辺は、鉱山町にある世の常。
明治33年には採掘区の厳格化や鉱主が採掘事務所を開設し利用料徴収,管理、この市街地の便利さ含め密採者は減り、正規手続きで採掘する方向に落ち着いていく。
段々と産出量は落ち込み、ゴールドラッシュは終焉を迎えていく。
砂金採取は現実、昭和までは行われた様だが、現在は「ウソタンナイ砂金採掘公園」
「ペーチャン川砂金掘体験場」等幾つかの記念公園的に運営されて、その片鱗のみ残っている様だ。
概ね、明治の数年間をピークとし、人々が酔いしれた話。


さて、どうだろう?
紹介した事のある様似町や旭川市史書に残る事例のみならず、実際には北海道の各地で採金事例はあり、その拡大で源鉱脈が他の鉱石も含めた鉱山として大規模運営されたりしていった様は想像に易しい。
そこには、豊漁→凶漁となったニシン漁での貧困問題らも絡んでいた様だが。
こうした社会背景で、ゴールドラッシュが発生した事になる。

と、ここで終ったら、本ブログを読んで戴いてる方々に少し物足りないかも知れないので、折角なので一石投じてみようと思う。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/08/204935
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/10/093212
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
近文コタン形成と民族運動発生のきっかけの一つは第七師団の敷設に絡む土地問題。
大きくは「地上げ屋の暗躍」。
ただ、原野に近い土地を都市開発するにしても、全国の地上げ屋が注目する程の話題になるのか?…少々引っ掛かるところ。
何せ都市開発に対する莫大な投資も必要。
既に都市開発された本州の都市の拡大の方が効果出そうなものだ。
だが…「砂金」が出たら?
得た砂金を元手に買収費用や開発費用に充当可能。
つまり「呼び水」として着目させるには十分な破壊力を持つのではないだろうか?。
上記の通り、一番最初、雨宮敬次郎の採掘権申請は明治19年頃で、ゴールドラッシュは明治30年から。
対して、旧土人保護法対象の人々に土地供与し農耕をさせる話が出たのが明治18年で、旧土人保護法制定が明治32年
時期が妙に符号する。
利権が一つであり、事態がハッキリ見通せないなら動き憎いが、どちらに転んでも良い様にしておけば…


まぁ、此処までにしておく。
何方にしても土地利権の絡む事。
その時期に山師も地上げ屋も投機家も、ウヨウヨ北海道に居た事は間違い無し。
そんな社会背景を忘れてはいけない。







参考文献:

「北辺のゴールドラッシュ」 日塔聡 北海道出版企画センター 昭和57.6.15

旭川市史 第一巻」 旭川市編集委員会 昭和34.4.10

時系列上の矛盾、厚真町④…「上幌内モイ遺跡」の中世はどうなのか-3

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/23/204800
更に続編。

平成16年度に開始した発掘調査は、平成19年度迄、上図の19年度予定地を拡大し、太線で囲われた部分まで行われた様だ。

では、改めて基本層序…

0層…撹乱・耕作土
Ⅰ層…表土
Ⅱ層a…樽前a(1739年降灰)
Ⅱ層b…駒ケ岳c2(1694年降灰)
Ⅱ層c…樽前b(1667年降灰)、層厚15cm
Ⅲ層a…Ⅱ層cを含む黒褐色シルト、層厚1cm
(近世包含層)
Ⅲ層b…黒色シルト、層厚5cm、上位が中~近
世アイノ期包含層で下位が擦文期包含層
Ⅲ層c…Ⅲ層bとの境界に白頭山-苫小牧火山灰
が部分堆積。続縄文~縄文晩期包含層
Ⅳ層…樽前c(2500~3000年前降灰)
Ⅴ層…黒色腐植土。a~cに分かれ、縄文初期
~縄文晩期までの包含層。
Ⅵ層…暗褐色シルト。縄文早期包含層。
以下割愛…

特にアイノ文化期では、18年度迄の調査では平地式住居の年代が二期に分かれる傾向を見付けた為、その時間差の把握に力を入れたとの事を

では遺構から。
・アイノ文化期(カッコ内はそれまでの調査との合計)…
平地式住居…3(10)、土壙墓…1(3)、集中区…4(24)等。
特筆すべきは、8号住居内の炉から剥片状の鉄滓や集中区から鉄錆付着の叩き石、10号住居近くの20集中区(焼土近く)から金鉗(やっとこ)や線状痕の有る石,台石と思われるものが出土し、鍛冶等金属加工に関係する物が検出される。この焼土から採取された炭化クルミのC14炭素年代は、1110~1220年(2σ)である。因みに10号住居内の炉から採取された種実のC14炭素年代が1165~1260年(2σ)で古い時代の方に属する。

そして、8号住居内の炉から採取された炭化クルミのC14炭素年代は、1460~1640年(2σ)で1号住居らとほぼ同じで新たな時代の方に属する。
4号土壙墓では人骨は出土していないが、副葬に刀子(腰付近?)と針,漆塗膜(頭の方向?)が出土している。堆積土はⅢbとⅢc。どうも先に発見された1号土壙墓とこれは木棺を使ったのでは?とも考えられるとの事。
覆土から推定すれば新しい方の時代のものか?
また、シカ中心の獣骨集中区は「送り場」を推定、樽前b火山灰に近いⅢa直下のⅢbであり17世紀初頭を想定している。
さて、おわかり戴けたであろうか?
平地式住居の層を持って「アイノ文化期」の遺物として表現してはいるが、C14炭素年代から割り出すと…
①古い方に属する建物や焼土
→平安末~鎌倉期の遺物
②新しい方に属する建物や焼土
→室町~戦国,江戸初期位の遺物
と、分かれる傾向を持ち、データ上は200~300年程度のギャップが出ている。
この「上幌内モイ遺跡」のみ且つ採取炭化物での測定データで考えたら…と註釈は必要だが。
さて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/02/201117
「新編天塩町史」からの報告…
「幕末まで竪穴住居は使われていた事を考慮すれば、平地式住居化がアイノ文化の指標となるのか?」…と言う疑問。
この「上幌内モイ遺跡」ではその逆バージョンが発生する。
「平安末期に何らかの施設としての平地式住居が登場するのであれば、竪穴住居との併用が考えられる」のではないか?という推定だ。

まずはおいといて…
・擦文期…
18~19年度の調査では
集中区…20(57)、土壙墓…1、溝状遺構…1を検出。
特筆すべきは、まず土壙墓(3号墓)。
比較的程度よく人骨が残る模様。
一部主体部が落ち込みしており、木棺の使用が考えられる模様。
副葬は、擦文土器片(1個体へ復元不能)、卵型の黒曜石転礫、小刀、帯金具、鎌、環状装飾品。
覆土中にも擦文土器×2。
主体内の擦文土器は、口縁に粘度塊、肩付近に馬蹄形圧痕が並び、内面に炭化物付着で煮炊きに使われた可能性あり。
ただ、筆者的に一つ疑問がある。

右上の図の右側、墓の掘り込みはⅢ層bの途中若しくは上からになるのだろう。
擦文期はⅢ層bの下部になるが、これを擦文期の土壙墓として判断して良いのか?…これが疑問。
Ⅲ層の包含層がⅣ層上面まで達した際に主体部の落ち込みを確認したとある。
確かに同図の左側はⅣ層。
元々Ⅲ層は薄い。どうなのだろう?
先に…
最も重要と考えるのは、集中区44だろう。
ここは「鉄器生産関連遺物集中区」とされ、被熱した粘度塊、壊れた羽口塊(細片で飛散)、鏨(タガネ)、板状の鉄片、鉄滓らが出土する。

左上の鏨は、上部に叩いた使用痕あり。
鉄滓は殆どが磁石に付かずマグネタイト化していないのか?。物により椀状にそっており、坩堝や土器に入れられ熱せられたのか?。
さて、羽口に近い位置の炭化材でのC14炭素年代は950~1030年(2σ)。白頭山-苫小牧火山灰より上面と考えられるので、妥当なのだろう。
ただ、少々残念なのが、この42集中区は倒木により多少かき混ぜられた痕跡はある様だ。倒木痕跡が残り、鏨を含む鉄片がⅢ層bの上位~下位まで分散する(羽口は中位)。
但し、炭化物のC14炭素年代の測定らでは、一点を除きほぼ矛盾なく綺麗にⅢ層bの各年代を捉えている。
厚さ5センチの土層をそれぞれトレースしている訳で、それだけ慎重且つ正確に発掘していたのだろう。敬意を持つ。


ざっとではあるが、古代~中世での状況を簡単にピックアップしてみた。
薄いⅢ層bではあるが、アイノ文化期と擦文文化期として表記される。
が、上記C14炭素年代を見て戴ければ、あれ?と思う事もあるだろう。
それぞれ、分けて分類してはいるが、炭素年代で分ければ…
・上…1400年代後半~1600年代前半
・中…1000年代中版~1200年代中盤
・下…900年代前半~1000年代前半
そして、アイノ文化期の古い方とされるのが、中。
さて、これを概ね東北の動きと重ねてみると…?
・上…室町~江戸初期、丁度南部氏の侵攻と十三湊陥落→ゴールドラッシュの時期
・中…安倍,清原氏→奥州藤原→鎌倉期
・下…秋田城→防御性集落の時代
となる。
その中で上記製鉄関連や前項の円形周溝遺構は、中~下。
やはり、その中間は抜けている。
むしろこういうべきか…
竪穴→平地式住居化が始まるのは、安倍,清原氏、むしろ奥州藤原氏の影響で始まった可能性がある…か。
それも製鉄関連遺構を伴う為、東北からの奥州藤原氏関連の移住に関係する可能性がある…と。
先に記載した「擦文の土壙墓」が、Ⅲ層bの上位から掘り込まれていたとしたら、副葬らの装飾品は、1400年代以降のものとなりうる為、明確なアイノ文化化開始以前から平地式住居化が始まっていた可能性が出てしまう…と、言うことになる。

実は、円形周溝遺構については触れられていない。
纏めとしての記述がないのもあるのだが。
まぁ、一つの遺跡の発掘結果で全てか決まる訳でもない。
ここは、近辺の遺跡の発掘調査報告書を続けて読み、近隣の状況を考えてみよう。
Ⅲ層bは薄い。
これを見る限りでは、平地式住居のみで「アイノ文化期」とするのはC14炭素年代との整合性や東北の動きと合わせ鑑みれば、少々危険ではないのだろうか?
それは素人目だからなのか?
が、
・C14炭素年代(地磁気のデータはこれをトレース出来ている)
白頭山-苫小牧火山灰
・Ta-b
これらからしか明確な編年指標が得られていないのも事実ではある。







参考文献:

厚真町 上幌内モイ遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査概要報告書-」 厚真町教育委員会 平成17.3.18

厚真町 上幌内モイ遺跡(2) -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書2-」 厚真町教育委員会 平成19.3.27

厚真町 上幌内モイ遺跡(3) -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書3-」 厚真町教育委員会 平成21.2.28

この時点での、公式見解42…本質は「古代と近世が繋がってない」で、問題点は「中世が見当たらない」事

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/01/201111
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/28/222326
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/30/194418
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
これらを前項とする。
未だに不毛な議論が闊歩しているので、敢えて纏めとして書いておく。

・近世アイノ文化の人々は古代から住んでいた
・その文化の源流はオホーツク文化
まだそんな事を言っている方がいる様だが、それらは全く立証されてはいない。
史書上、古代に住んでいた人々と近世に住んでいた人々と繋がりが見い出せていないと「ハッキリ書いてある」のだ。


「先史時代の北海道に住んでいた人々はどんな種族の人であったかははっきりしない。発掘された人骨はすくなくないが、特徴は各年代ごとに異なり、また地域によっても異なっていて、統一的結論を出すにはいたっていない。先土器文化期に北海道に移り住んだ人々はそのままこの地に定着し、北海道が孤島になるとその原住民となった。その後しばしば海を渡って北方大陸や本州方面から、新しい文化を持った人が渡来したが、これらはおのおのの地域で先住者の中に吸収されていった。これらの渡来者のうちで最も顕著なのはオホーツク式土器文化の所有者であるモヨロ貝塚人である。この人々の骨格の特徴は道内各地で発見された他の文化系の人々、もしくは近世のアイヌ人、日本人とも著しく異なっている。しかしこれらの人々が何処へ行ってしまったのか解らない。」
「恐らくは近世アイヌ人の中に吸収されてしまったのだろう。そしてこの過程がまたしばしば各方面から北海道に移り住んだ人々の辿った道であった。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

上記の様に途中の推移が全く立証出来ておらず、オホーツク文化の象徴たる「モヨロ貝塚人」も直結はしないと書いてあるのだ。
当然なのだ。
オホーツク文化は、擦文文化が道内に拡大する段階で消えてしまう。
近世アイノ文化の発掘調査報告や古書記録に似たような部分が出現するまで「数百年の空白」があり、途中過程が証明されている訳ではないし、まず近世アイノ文化の人々とは骨格特徴すら違うと書いてある。
故に「吸収されてしまったのだろう」と「仮説」しているに過ぎない。

そこで、一つの根拠として挙げられるのが、これ。

蝦夷がすなわち今日のアイヌを意味するようになったのは、東北の異民族と言えばアイヌしかほかにいなくなった時以来のことである。それは我国の勢力が奥羽の北端近くに伸び、蝦夷をえぞと呼ぶようになった平安末のこと、真に蝦夷アイヌであることを確実に語ったものは、正平十一(一三五六)年にできた諏訪大明神画詞である。」

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

但し、その根拠とされるものはこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440
こんな主旨で書かれたものだ。
これが唯一だそうで。
つまり、確定に至らしめるには弱いと言わざるをえないし、これが考古学研究で裏付けるには「数百年のギャップ」の説明が求められる事になる。
これらは当然専門家は熟知した事で、「繋がっていると『仮定』した上で」各種論文らが書かれていると言う事だろう。
ここを踏まえねば、議論をする以前。
当然ながら、繋がっていると仰る方は、この「数百年のギャップ」を説明しなければならない。
そこから開始。
故にここが本質。

では、この「本質」を解明するための「問題点」は何か?
結論からズバリ書く。
『中世が見当たらない』…
これ。
上記の通り、
・鎌倉〜室町期の間の「古書記載が殆ど無い」事…
・鎌倉〜江戸初期の間の「遺跡が殆ど無い」事…
この2点だろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/25/193945
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/26/204942
これもよく「コシャマインの乱」を引き合いに出す方は見受けられるが、コシャマインの乱こそ「有ったか?無かったのか?」解らないという記載がある。
戦場となった「道南十二館」も不明。
むしろ、南部氏側に記載ある「蠣崎蔵人の乱」には恩賞記録が残され、新羅之記録が唯一の記載であるコシャマインの乱より蓋然性が高いというオマケ付き。
ここも立証されてはおらず、室町〜戦国期もハッキリ言えばブラインドになっていると言わざるをえない。
つまり、仮に「諏訪大明神画詞」をある程度信憑性有りと仮定しても、中世が丸っと空白で、こちらも何も立証出来ていない。
中世遺跡として確実に認められるのは、現状は道南と余市位だろう。
それ故、今我々は厚真町の発掘調査報告書を読み込み中。
無いものは無い。

現状はこうだ。
途中過程である中世がハッキリ説明出来ない限り、繋がりあると断言出来るハズもない。
断言するなら、空白の中世を説明する責任を負わねばなるまい。
各研究者が立証出来ぬものを素人が簡単に立証出来るのか?
まぁ我々はそれに挑んではいるが、簡単なものではないのは熟知した上。
だから、発掘調査報告書まで遡って読んでいる訳で。

一言で済む。
「古代から近世に繋がっていると仰るなら、中世どのような経緯だったのですか?」
答えられる方は「いない」。
全て仮説のみ。
断言出来る事は何もない。







参考文献:

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日

時系列上の矛盾、厚真町③…「上幌内モイ遺跡」の中世はどうなのか-2

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/21/203750
さて、続編である。
前項は平成16年度の発掘。
本項では、平成17年度(前項の西側)の発掘の概要である。
前項では段丘の東縁の発掘だった為に、段丘の隣接した西側へ地域拡大した感じ。

では、改めて基本層序…

0層…撹乱・耕作土
Ⅰ層…表土
Ⅱ層a…樽前a(1739年降灰)
Ⅱ層b…駒ケ岳c2(1694年降灰)
Ⅱ層c…樽前b(1667年降灰)、層厚15cm
Ⅲ層a…Ⅱ層cを含む黒褐色シルト、層厚1cm
(近世包含層)
Ⅲ層b…黒色シルト、層厚5cm、上位が中~近
世アイノ期包含層で下位が擦文期包
含層
Ⅲ層c…Ⅲ層bとの境界に白頭山-苫小牧火山灰
が部分堆積。続縄文~縄文晩期包含層
Ⅳ層…樽前c(2500~3000年前降灰)
Ⅴ層…黒色腐植土。a~cに分かれ、縄文初期
~縄文晩期までの包含層。
Ⅵ層…暗褐色シルト。縄文早期包含層。
以下割愛…

ここは変わらず。
報告は平成16,17年度を纏めているので、数らは前項の物を含む。
丁度21グリッドの右側が16年度、左側が17年度の発掘になる。

では遺構から。
・アイノ文化期…
平地式住居…7、土壙墓…2、集中区…3箇所、杭列等。

この内、住居は出土層位や状態から前後関係がある様だ。
新しいもの…1,2,5号住居
古いもの…3,4,7号住居
ハッキリせず…6号住居
炉跡は2個/1軒が多い。
この中の1号住居の焼土跡のC14炭素年代は、暦年校正で1482~1648(2σ)年で、1500年代から1600年代前半までを示す。
概ね室町~江戸初期迄になるか。
また、土壙墓は、
1号墓…身長161cmの熟年男性、副葬は全長60cmの刀
2号墓…熟年女性(頭骨のみで身長ら不明)、副葬は刀子と漆椀、鉄鍋
の様だ。

・擦文文化期…
円形周溝遺構…1、竪穴様遺構…1、等。
これがその円形周溝遺構。

郭上に焼土跡を検出するものの、土壙墓らは検出無し。つまり、古墳ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
これの事。
盛土の基底部と白頭山-苫小牧火山灰の関係から、擦文期に作られたものと断定される。
全体の径が約1m、内郭が約60cm強、勿論用途不明。
焼土跡は微量のキビやブドウ科の炭化種子が検出されるがこれも用途が明確では無い模様。
竪穴様遺構は、約60cmの円形×深さ約30cmで中央に炉跡があり、そこから吐き出した遺物で馬蹄形に溝が出来ている(人為的に掘った訳ではなさそう)。
柱跡が無い様で、住居とは言えない模様。
集中区は焼土や礫,土器集中らで、住居跡は検出されてはいない。
前項の炭化キビ塊や銅椀等と合せ、儀礼場ではないか?と推測する様だ。
C14炭素年代は4点行われ、暦年校正で880~1022年から1039~1217(2σ)年と、擦文(平安)期、特に後期を示す物が多い。

遺物は、前項を参照戴きたい。
土器ら数は増えるが、明確に別種と思われるものが追加されてはいない様だ。


さて…
発掘範囲が広まった事で、
・アイノ文化期
→平地式住居跡の追加と土壙墓検出…
→生活の場?
・擦文期
→円形周溝遺構や竪穴様遺構の検出…
→作業や儀礼場?
と…
前項でも指摘されていた事だが、割と明確に土地の利用用途が違う事に気付かれただろう。
基本層序的に5cmだが、その上位と下位で数百年のギャップが存在し、これだけ明確な違いがある。
筆者が気になる事は、擦文文化人があまり竪穴住居の切合いをしない几帳面さを持ち、墓域や聖域とされる空間と居住区を区別していた事。
連続性があると言われる余市町の大川遺跡,入船遺跡らがそれに当たり、その区別の傾向は続縄文〜擦文と受け継がれていたかと思うのだが。
が、ここ上幌内モイ遺跡では、まるで擦文期の利用用途を知らぬが如くに、儀礼場と推定される場所に、平気で住居や墓穴を空けている事。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/05/171231
本州の事例ではあるが、利用出来る土地の拡大の為、近現代では古墳近くまで居住区が伸びているが、何故、古墳が何故手付かずで残るのか?概ね先祖達の「墓」であろう事が伝承,想像出来るので、小山上に残る塚部分には触らなかったから…ではないだろうか?
それが墓でなくとも、何らか祀ったものと推定すれば「触らぬ神に祟りなし」。
古来からの墓所は、割とそのまま墓所として現代に繋がる事もある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/30/193033
今迄見てきた限りでは、アイノ文化では死後の世界を忌み嫌う傾向はあるようだ。
墓参習慣もなく、死者の魂はカムイへ「送り」生活の場に戻らぬ様に祈る…それほど忌み嫌うのに、わざわざ儀礼場と解っていたら、そんな所に生活の場を築くのか?
ここがどうも引っ掛かるのだ。
ここまで見る限りでは、先住の擦文文化人に対し、アイノ文化人は居住の継続性を持っていた訳ではなく、全くその土地勘が無い別集団として居住区を築いたのではないか?という疑念…
少なくとも、この上幌内モイ遺跡ではそうなるのではないか?と、朧げに引っ掛かってきている。

まぁ、上幌内モイ遺跡は三部作。
この第二章では「纏めや結語」の項目は無い。
時系列に読んで見ようではないか。




参考文献:

厚真町 上幌内モイ遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査概要報告書-」 厚真町教育委員会 平成17.3.18

厚真町 上幌内モイ遺跡(2) -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査報告書2-」 厚真町教育委員会 平成19.3.27

時系列上の矛盾、厚真町②…「上幌内モイ遺跡」の中世はどうなのか?-1

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/29/165629
厚真町「厚幌1遺跡」を先に紹介していた。
ここでは、兜や内耳鉄鍋が出土。
この発掘調査事案は、厚幌ダム建設事業に付随して行われているので、遺跡は「厚幌1遺跡」一つではない。
厚真町の川沿い自体が遺跡だらけなのもあるが、このダム建設事業に伴い周辺を発掘調査してるので隣接した様な遺跡も多い。
なら集中してその周辺の発掘調査報告書を見てみるか…このシリーズはそんな感じで発掘調査報告書を集める事に成功した。
入手に当たり、旭川市「旭文堂書店」様にご配慮戴き、改めてこの場で御礼したい。
ありがとうございました。

さて、「厚幌1遺跡」はダム建設地の下流側。
たまたまここで紹介した、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/25/061606
「上幌内モイ遺跡」、前項で書いた「SNSでの中世遺跡の情報がある遺跡」と殆ど隣同士だった、というオチがついていた。
耕作地(田んぼ)を中心に
北…ヲチャラセナイ、ヲチャラセナイチャシ遺跡
東…上幌内モイ遺跡
南…オニキシベ2遺跡(中世遺構情報)
西…オニキシベ6遺跡…
この4遺跡で一周。
で、この中で北、東、南の発掘調査報告書を入手出来た訳だ。
と、言う訳で、この周囲を発掘調査順に特に中世(場合により擦文)に焦点を当てて見ていこうと言うのがシリーズ主旨。
それぞれ、ボリュームのある報告書なので、少しずつ読んでいくので悪しからず。

では先に紹介していた「上幌内モイ遺跡」を皮切りにしよう。
「上幌内モイ遺跡」は2004~2008まで、三度に分けて発掘調査されている。
勿論、この三部の報告書はコンプリート。
で、それぞれ順に取り上げる。
まずは2004年段階から。
この遺跡は厚真川河口から29km遡り、夕張山地の南端付近。
厚真川の支流オニキシベ川と夕張山地を源流とするショロマ川の合流点に挟まれた段丘上にある。

では、基本層序…
0層…撹乱・耕作土
Ⅰ層…表土
Ⅱ層a…樽前a(1739年降灰)
Ⅱ層b…駒ケ岳c2(1694年降灰)
Ⅱ層c…樽前b(1667年降灰)、層厚15cm
Ⅲ層a…Ⅱ層cを含む黒褐色シルト、層厚1cm
(近世包含層)
Ⅲ層b…黒色シルト、層厚5cm、上位が中~近
世アイノ期包含層で下位が擦文期包
含層
Ⅲ層c…Ⅲ層bとの境界に白頭山-苫小牧火山灰
が部分堆積。続縄文~縄文晩期包含層
Ⅳ層…樽前c(2500~3000年前降灰)
Ⅴ層…黒色腐植土。a~cに分かれ、縄文初期
~縄文晩期までの包含層。
Ⅵ層…暗褐色シルト。縄文早期包含層。
以下割愛…
ここであれ?と思ったのが、Ⅱ層c(1667年)直下からⅢ層b(900年代中葉)直下までの層厚は6cm。
約700年経過の中で6cmしか堆積しておらず、更に内1cmはⅢ層cが混じる…
「厚幌1遺跡」にある様に地震らで上位と混ざる事はあるかも知れないが、堆積が少ない印象。
それでも、Ⅲ層bの上位,下位で面的違いを持ち検出という。
なら、継続性があると言えるのか?

次に遺構…
アイノ文化期としたⅢ層b上位で、
住居跡…1、建物跡…2、焼土…3、炭化物集中…12等。
住居跡は約2mおきに柱穴を持つ4~5m×4mの平地住居で、中央と西側に焼土(炉跡と推定)がある。
建物跡2棟は2m×2m程度。
壁にあたる溝状遺構は無い模様。
擦文期としたⅢ層b下位では、
焼土…14、炭化物集中…19、土器集中…5等。
ここで焼土が2系統ある様で、
・骨片を殆ど含まない(又は少数)
・骨片を主体とする
に分かれる。

次は遺物…
アイノ文化期では、明確に住居炉跡から出土したのは針状鉄器と銭貸「聖宋元宝(初鋳1101年)」。
他短刀の鍔、金属器(ニンカリ?)、小札、刀子破片、不明鉄器3等。
コバルトブルーのガラス玉もあるが、極近い位置で擦文土器が出土しており明確に非ず。
擦文期では、擦文土器、須恵器、銅椀(少なくとも4個体に分かれる)、イナキビを団子状に丸めた炭化物、鉄鏃、鉄斧等。
又、丘陵部では擦文~アイノ文化まで纏めてU字の鍬先、鈎状鉄器、刀子等。
この丘陵部は鉄器片が集中する傾向あり。

まとめとして…
アイノ文化期では、住居跡が樽前bからどの程度遡るか?今後の課題としている。
上記通り、明確に利用時期を特定出来る物がないのが実状。
擦文期では、焼土跡で、骨の有無で傾向が分かれる→儀礼等が伴うか?伴わないか?の傾向ではないのか?と推定している。
また、イナキビ団子は栽培植物の加工,調理の実例として挙げられる可能性がある。
概ね、擦文遺物は白頭山-苫小牧火山灰より上にあり、10~11世紀の物と推定される。
ここは、縄文へ遡っても、本州~富良野~道東への山越えルート上で、交易や情報の通過点として想定されており継続調査が待たれる…こんな感じか。

さて、擦文期の儀礼場?…
銅椀は4個体。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/17/161552
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/22/201652
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/15/193225
実は銅椀とは「六器」が由来。
仏様に食事を供える器で、修験者なら持っているであろう物。
中央では藤原摂関家の時代だろうが、荘園で潤った上位貴族以外には簡単に食器として使う事の出来ぬ高価なもの。
それが「儀礼場」と考えられる場所から出土する…これ、どうだろう?
この場だけ見れば、蓄財品と思われる物はなく、経済観念を加味すれば「六器」に近づくと思われるのだが…

と、残念ながら「ニンカリ」と思われる物は写真無し。

と、古~中~近世に焦点を絞り、紹介してみた。
先述の通り、「上幌内モイ遺跡」は、3回に分け発掘調査されている。
これがどう最終発掘調査の「周溝」に辿り着くのか?
ゆっくり続編を待って戴きたい。






参考文献:

厚真町 上幌内モイ遺跡 -厚幌ダム建設事業に係わる埋蔵文化財発掘調査概要報告書-」 厚真町教育委員会 平成17.3.18

時系列上の矛盾&生きていた証、続報39…ユクエピラチャシから出土した鉄器、これ「馬具」では?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/19/202122
「史跡ユクエピラチャシ跡」より…これ、前項を書く時にどうしようか迷ったのだが、この際、備忘録としても含めて書いておく。
また結論から書く。
ユクエピラチャシから「馬具」の可能性が考えられる鉄器が出土している。

この写真の中央付近の輪っかの様な物だ。

「不明鉄器(図26-14~16)
不明鉄器はⅢ~Ⅴ層から一点、Ⅵ層から5点、計6点が出土しているが、図示したもの以外は小破片である。〜中略〜15は、馬具の可能性があるが、類例を見出だせなかった。24H区Ⅵ層出土(写真5-①)。〜後略」

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~16年度発掘調査報告書−」 陸別町教育委員会 平成19.3.30 より引用…

筆者も一目見たとき「あれ?轡では?」と思い、何も言わず「これ何に見える?」とメンバーに見せてみたが…やはり馬具じゃないかとの意見。
SNSでも出してみたが、馬具じゃないかとの話が出た。
発掘者の印象と同意である。
この24H区とは、B郭の縁に当たる。


この辺からの出土になるか。
確かにⅣ層があり、その何処かでこの不明鉄器があった事になるが、詳細は図示されてはいないようだ。
前項でも記載した通り、Ⅵ層はⅤ層(駒ケ岳C2火山灰)直下のアイヌ文化期遺物包含層。
駒ケ岳C2の降灰年代は1694年で且つ、最も時代を下ってもこの時期には既にユクエピラチャシが廃絶していたと断定される。
つまり、この馬具ともとれる不明鉄器は、1694年より前に持ち込まれた事になる。

さて、馬。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/03/13/150428
そして、駅逓制度。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/05/194001
室蘭市史によれば、北海道での駅逓制度の記述は1691年の十代藩主松前矩広公が奉行に対して通達したところから。
降灰は3年後なので、藩主指令で行われたとも言えるが、その項の様に紆余曲折はあった様で、陸別町がすんなり駅逓制度で通じたか?は微妙だろう。
ましてや、Ⅴ層Ⅵ層の境目で出土した訳ではなく包含層として捉えられているので、少なくとも1694年を「下限として」それより少なくとも遡る…という感じか。
つまり、駅逓制度が始まる前に既に、馬が持ち込まれた可能性が発生する。
勿論、何らかの理由(例えば鍛冶の母材)として持ち込まれた事も考えられる為に、言い切るのは危険ではある。
残念ながら、この不明鉄器についての記事は上記出土詳細を記した本文中のみで、同発掘調査報告書の「結語」の章には記述はない。
まぁ報告書を纏める上では、重要視されなかった事になる。

が、アイノ文化で馬の使用はほぼ語られてはおらず、これが馬具ならその点の見直しになるのだが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/10/180459
当然ながら、北上し、続縄文文化集団と擦文文化集団を構成していく陸奥蝦夷(エミシ)は、馬を飼育していた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
金田一説をとれば、口蝦夷陸奥蝦夷(エミシ)と同族なので、口蝦夷が馬を持ち込み使っていた…これは説としては矛盾はないのであろう。

さて、この不明鉄器は「馬具」なのか?
まだ、後の論文等には至ってはいない。
まだ馬の存在は、闇の中…


尚、忘れぬ様にここに付記しておく。
前項で書いた試掘段階で出土した「トンコリの糸巻き」も、B郭からの出土だとの事。
但し、層序らは記述なく不明。







参考文献:

室蘭市史 第三巻」 室蘭市史編さん委員会 平成元年三月二十五日

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成15年度発掘調査概要報告書−」 陸別町教育委員会 平成16.3.30

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~16年度発掘調査報告書−」 陸別町教育委員会 平成19.3.30

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~20年度整備事業報告書−」 陸別町教育委員会 平成21.3.27

北海道には文字がある、続報8&時系列上の矛盾…最大級「史跡ユクエピラチャシ跡」とは?、そして消えた「墨書礫」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/120652
「ユクエピラチャシ」とは?
陸別町利別川段丘にある3郭連結式チャシ。
3つの弧状の壕で画された、北からA郭、B郭、C郭がそれぞれ並ぶ。
現況で長軸128m×短軸58m(発掘で確認された盛土含む)と、チャシとしては道内最大級の一つ。
ユクエピラの意味は「鹿を食べる崖」「鹿が餌を食べる崖」「鹿が居る崖」ら諸説ありだが、別名「カネランチャシ」「リクベツチャシ」とも呼ばれていた様だ。
B郭には周囲の開拓の祖「関寛斎」を祀った「関神社」があり、C郭には顕彰碑があったそうだ(現在移築)。
東側の崩落が酷く、元々は円周状に壕が巡らされていたとされるが、概ね1/3程度失われているのではないか?と想定され、その保全の意味も含めて国指定史跡指定を受け、発掘と整備事業が行われ、現在に至る。
その事業に伴い、
平成11~12年→試掘…
平成14~16年→本発掘…
平成17~20年→環境整備…
が行われ、現在の姿で見学可能になった。
元々は火山灰に覆われ「白いチャシ」と言われたらしいが、整備事業でその姿を再現させている。
実はグループでも話題になってはいて、令和3年秋段階で整備事業報告書、令和4年冬段階で本発掘の調査報告書を筆者は入手していた。
が、さすがに複数層で盛土され素人には難解だった為に放置していたのだが、ここにきて、SNSでお世話になっているF34fC9F4NEMW5e2ファンガンマ様から、試掘段階での報告書からのビッグニュースを戴き、敢えて取り上げることにした。

結論から書く。
試掘段階で、「西」そして「金」と墨書された「墨書礫」が検出されていた。

なかなかセンセーショナルとも言える。
同じ様に希少なものとして「トンコリ(弦楽器)の糸巻き」とされる物も試掘では検出され、それについての記述はまとめ等にあった。
しかし写真が本発掘の調査報告書と整備事業報告書に無く、不思議だなと思っていた。
で、ここが問題…
本発掘の発掘調査報告書と整備事業報告書にはこの『「西」,「金」の墨書礫』の記載は無い。
なので、我々グループのテーマの一つ「古代北海道には文字がある」…この琴線に引っ掛からなかったと言う訳だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/193325
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/07/200651
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
文字と言えば、余市町「大川遺跡」の墨書土器(漢字を土師器に墨書き)の事例は紹介済、可能性的には「中世の硯」も検出、余市町では、「文字が無かったのではなく、識字率の問題なのでは?」と問題提起されていた。
ここで他の地域でも墨書が出れば、古代~中世に「文字を扱える者が居た」可能性が出るのだが…また「アイノ文化人に対する忖度」という大人の事情であろうか?と勘ぐりたくなる。
更に「墨書礫」と言う事は、土器らの製作地で記載された可能性は全く排除される。
現地、陸別町で書かれた可能性が高くなって来るだろう。
可能性的には話題にならぬ「墨書や刻書」は各市町村の発掘で出土して且つ話題にされていない事も考えられる。
少しずつ探っていきたい。
「古代~中世北海道には文字があった」…少ないなりに。

結論から書いたので、ユクエピラチャシがどんなものか?サラリと書いておく。

概略の形と発掘経緯はこの通り。
では基本層序…
Ⅰ…表土
Ⅱ…ⅠとⅢの混ざり
Ⅲ…Ta-a(樽前山、1739年降灰)
Ⅳ…薄い腐植土
Ⅴ…駒ケ岳C2(駒ケ岳、1694年降灰)
Ⅵ…暗褐色土(アイノ文化期包含層)
Ⅶ…構築に伴う盛土、旧Ⅸ,Ⅹ層
Ⅷ…暗褐色土、旧表土
Ⅸ…暗褐色土で火山灰を伴う
(火山灰は不明)
Ⅹ…ハードローム
ⅩⅠ…灰色火山灰で「置戸火山灰」

元々、チャシ構築時点での地表はⅧ層になり、そこから壕を掘り、そこから出た土を周辺に盛土している。
その時、ⅩⅠ層の置戸火山灰を郭上に被せた為にチャシ全体が白っぽく見えたと推定して、それを再現させたと言う訳だ。
但し、置戸火山灰は「編年指標」とはされていない様で、降灰時期がハッキリ記載されてはいない。

遺構…
○A郭とA壕…
最も北側に位置し、関神社らとの関連が薄い為に撹乱が少なく、本発掘はせずに現状維持された。
壕の切合から、構築順はB→Aとなる。
○B郭とB壕…
中央に位置し、関神社が建立されていた。
溝状遺構→1
柵列構成柱穴→78
他の柱穴→45
不明ピット→1
焼土→16
(試掘と合計)
B郭の縁には柱と板らで構成される柵列が西側に廻らされてた模様。
○C郭とC壕…
南側に位置する。
溝状遺構→1
柵列構成柱穴→7
他の柱穴→11
不明土壙→1
焼土→4
C郭もB郭同様に西側に柵列があった模様。
C郭内には、B壕を掘った際の土を盛土し整地した痕跡が有り、構築順はB→Cとなる。
○D壕
B壕の西側に壕を検出したが、何故か埋め戻された形跡あり。

現状、構築はB郭,壕が最初に作られ、C→Aの順で拡大されたと考えられている様だ。

遺物…
縄文土器と続縄文(北大式)は出土しているが、アイノ文化期にクローズアップしておりあまり記載がない。
擦文土器の出土は記載無し。

鉄器
・刀,刀子
・小柄
・山刀
・小札
・釘
・鉄鍋片
・釣針
・鈎状鉄器(マレブ?) ら77点
特に、小札は黒い漆が塗布されている。
下地はなく、熱した鉄に漆を掛けたところから数層塗り重ねたと分析される。
顔料は煤で黒漆。補修の再塗布痕跡あり。

銅器
・縁金
・鞘金 ら9点
他、銭貨として皇宗通宝(初鋳1039年)が2、洪武通宝(初鋳1368年)が1、研磨され不明が2

陶器
・椀
・天目椀
・染付
白磁 ら4点
概ね15~16世紀の物。

ガラス玉
7点

骨格器
中柄ら360点

鹿、獣骨、魚骨
70369点
エゾシカが大半。

チャシ利用年代…
問題はここ。
概ね駒ケ岳C2に全体を被覆されており、17世紀末には確実に利用終了した事はほぼ確実の様だ。
上記遺物では、銭貨からは古代~中世、陶磁器からみれば15~16世紀。
ただ、これらは包含層からの出土の様で、それらが持ち込まれた年代には既にチャシは構築,存在したとは言えるのだが、営まれたか?と言えばそのままは「危険」だと本発掘の発掘調査報告書には記載される。
なら、C14炭素年代は?
焼土らの炭化物からの測定結果は、640±100BP〜1060±90BPで、概略西暦840~1310となり、思い切り擦文期。
報告書上でも、ハッキリ利用年代の特定まではしていない。
ここで気になるのは、遺物→包含層、C14炭素年代サンプル→直の焼土ら…ここ。
上記の墨書礫もハッキリ出土箇所が解らず、決め手にはならないが…
擦文期(C14炭素年代より)構築
→一度廃絶
→後代別の文化集団が再利用
→17世紀末前に再廃絶…
素人目ではあるが、こんな事は考えられないであろうか?
不思議と、こんな集団の変化があったと考える発掘調査報告書には巡り合わないのだが、物証だけでみれば有り得る話ではあると思うが…

さて、如何であろうか?
少なくとも、
墨書礫→後、全く触れず
トンコリ→後、片言のみ
ここは事実。
ここで…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
ムックリトンコリは元々本道アイノが持っていた文化ではなく、樺太→対雁らへ移住した樺太アイノが持っていた文化なのは知れた話。
仮に、それがトンコリの弦巻きである場合、江戸期に樺太方面から侵入した者達がいた事になるのだが…
まぁ大々的に発表しない(出来ない)のもその為か?
最早、かなり勘ぐり深くなっているが…

真実は如何に…
今のところはここまで。





参考文献:

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成15年度発掘調査概要報告書−」 陸別町教育委員会 平成16.3.30

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~16年度発掘調査報告書−」 陸別町教育委員会 平成19.3.30

「史跡ユクエピラチャシ跡 −平成14~20年度整備事業報告書−」 陸別町教育委員会 平成21.3.27