弾丸ツアーで見えたもの、あとがき…備忘録として、他地域なら?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/17/190440

北海道弾丸ツアー以降、あまりブログのアップをしていない。

理由は簡単。

閉口した…これに尽きる。

最もそうなったのはやはり「研究者の問題点とSNS等の巷の話が共有されていない」事に気が付いたから。

 

時間軸と空間がシャッフルされている…これについてぶっちゃけ、現地の学芸員さん等に質問すれば「そこは解明されていない」等の答えが得られた上、現状はこんな解釈になっていると教えて戴けた。

では、巷の話の中で、そんな研究者が持つ疑問が論じられる事があるか?

ほぼ見たことは無い。

何故、それが共有されてないか?

端的に言えば、博物館も資料館もちゃんと利用はされてはいない…ここに帰結せざるを得ない。

歴史戦だと息巻く方もいるが、それで良いのか?

理解不能に陥った。

 

北海道在住のメンバー達は、学芸員さんらと雑談的に色々裏話や謎をきいてくる。

それを掘り出し直したりしている。

備忘録だが…

折角なので某所に行った時に、ガチで発掘をしている方に一般論として伺った。

表土以外を重機で掘る事はあるか?と。

発掘は事前調査で角穴状に掘り込み、それを線状に伸ばし、概ねの地層や遺構,遺物の状況を把握して、その後全体を掘るべきなら上の方から被覆層は手で掘るので、本当に耕作土等の表層しか重機は使わないとの事。

東北では分厚い火山灰層などないので、当然なのだろう。

そこで北海道の事例をぶつけてみた。

火山灰層へ重機を入れるか?と。

驚きながらの答えは「一般論なら『否』」。

勿論、そんな発掘はしていないので、明言は避けつつ。

驚いた理由は、我々と一緒だった。

「仮に継続された居住が認められるなら必ず生活痕として(焼土ら)遺構が残るので怖くて出来ない」…。

当然、一般論且つ地域独特のやり方はあろうから、それは尊重している事は理解する必要はある。

ましてやまだ一人だけの事例。

細かいところは、その地域でなければ解りはしないので、良し悪しらは別の次元である。

これが弾丸ツアーの締め括り。

ここで、筆者の文献を開き読む手が止まった。

 

まぁそんな事も言ってはいられない。

史書の全面書き換えで、協会第一世代の主張や先達の研究経緯が消される傾向は何気に感じる。

調べようとすれば可能な現役世代は、ハッキリ言って筆者にとってはどうでも良い。

学べば良いだけ。

北海道のメンバーの子供や孫世代に「こんな視点もあるよ」と渡せればそれで良いのだ。

だから、ズブの素人が学ぶ過程ごと曝け出している訳だ。

 

もうこのグループも丸3年になる。

言ってる事も

やってる事も

そのスタンスも

強要しない事も

笑いを忘れぬ事も

3年前から全くブレてはいない。

ただ、コツコツ全てを積み重ねる。

これだけだ。

 

さぁ、再び動こうか。

まぁ当初の長期見通しではOnTime若しくは僅かな先行。

閉口してばかりもいられまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丸3年での我々的見え方…近世以降の解釈と観光アイノについて

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/17/190440
たまたま、SNS上で話が出たので、少し纏めておこうと思う。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/151154
1項目のブログ。
筆者が歴史の再勉強を始めたのは、3年前の8月になる。
その年の9月〜10月位から「事実を集めてグループで話合ってみよう」とメンバーが集まり始め、翌年5月に筆者がブログを始めた。
実は、纏めるもなにも、グループの中では概ねその年の年末位には、現ブログに記載している事柄には到達していた。
新文献(論文と言うより原書の類)を読んでも、資料館らで学んでも「やっぱり…」「そりゃそうだよな」「ほら、また物証」、こんな話が約二年半ずーっと続いている。
一貫しているのは、
・北海道と東北は古代から繋がっており、それが途切れた事はない
蝦夷イコールアイノではない、蝦夷にアイノは含まれる
この二点。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
先日追記したこの白人村の移動痕跡も、さもあらん、やはりね…だ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
以前にも川村カ子ト氏がそのルーツを調べるきっかけはウタサ紋の共通性から。
どうやら4代位前に北見方面から旭川へ移住したらしい事は知られた話で、割と同じ時代にオホーツク方面から分岐しそれぞれの土地へ住み着いた形跡はある様で。
この話から先のSNSの話になった訳だ。

結論から書くと、
・近世アイノと呼ばれた人々の多くは、樽前山火山灰b(Ta-b)降灰の後〜樽前山火山灰a(Ta-a)降灰前後位に北方から入り込んだ人々だろうと現状考えている。
これは今辿り着いた訳ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/11/185110
元々北海道は、他の文化圏と接する位置にある。
新北海道史を読み始めた時点で、事実関係だけ抽出すれば、こんな風に見えるとグループ立ち上げ後数ヶ月で辿り着いていた。
又、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443
火山灰降灰から古書登場するまで百年位は空白がある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
この空白時のロシアの動きは並べ直しつつある。
現在ウクライナで聞こえてくる悪逆非道もさすがに古書にも記録があり、断片は見える。
難民的に逃亡してきてもおかしくはない。
つまり、北方から人が入り込む理由としては、
①ロシアの侵略
②同時に起こった場所請負制や北前船の就航により、我が国中を巡る経済圏拡大と労働力確保により受入れる土台があった
③火山灰降灰で前住民が避難した後に入り込む地理的要素が出来た
④租税の差が歴然
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/200203
方や我が国では現地の人々から税徴収せず、場所請負人が租税した。
対してロシアは、ロシア正教教化や学校設置らに合わせ千島の人々から毛皮等を徴収している。
因みに本州は年貢ら庄屋らを中心に直接徴収。
狩猟らで稼いだ分は全て実入りになるのと、租税する場合との比較を考えてみると良い。
これらで十分だろう。

また、道内移動だけでなく北方から入ったとする根拠は、
①移動した後も北方の文化をまだ残していた事
②言語が同化していなかった事
になる。
度々口にしているが、現在のアイノ系の研究で北方との文化の共通性をバンバン掘り下げているが、それがそのまま関連性を示す材料となる。
考えてみて欲しい。
延喜式らに記載ある「宇賀の昆布」やアザラシ等の革、これが途切れた事があるのか?
在らば記録があるだろう。
それが何十年単位、百年単位で切れた事があるのか?
量の変動はあるにせよ、恐らく古書を拾っても途切れてはいないだろう。
最大の需要家たる畿内と北海道は、主に十三湊や秋田湊等東北や北陸を介して物流ルートが繋がっていた証左。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/170920
樺太,千島で和物の着物を好む姿、それが商場知行制→場所請負制とより密着した関係が強まる中、同化が進まない方がおかしいのでは?
現に明治では、教育のスタートも影響するが、子供同士での会話から1~2代で普通に会話するに至っている。
場所請負制の段階で本州からの移住者は一気に増える。
何せ本州は大飢饉連発。
給与で肥料の「ニシン滓」を手に入れねば翌年の作柄低下は必至。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
行ったり来たりはお手の物。
これらから考えれば、徐々に且つ継続的に人が入って来たとも言えるだろう。

さて、これらを状況証拠からの推察に過ぎない…こう考える方は居るであろう。
が、この移住者による文化の変化はちゃんと学術的モデルがある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/14/191435
文化人類学の「埴原モデル」は本州人をどう表現していたかはこちら。
なら我々もそれに則ろうではないか。

埴原モデルに追記してみた。
この図は東北の史書や現在の旭川市史らに掲載され、ある程度立証されたとまで書かれる。
青線…本州からの移住者
これは
・擦文文化を作るエミシの移住
奥州藤原氏の脱出者
鎌倉幕府流刑地として流された者
・安東vs南部の抗争で十三湊からの脱出者
etc…
紫線…北方からの移住者
オホーツク文化
etc…
まぁこれらは断片で、行き来があるのだから、に入っているだろう。
ここで一番下の紫線がロシア侵略で移住した人々と考えて戴きたい。
図の「1」にあたるのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
金田一説にある「古蝦夷語」を使い本州人と会話可能且つ本州に近い文化を持ち、ゴールドラッシュ時に金掘り&キリシタンと共に暮らしたであろう集団。
概ねの北海道の方々のベースになっているのはこんな方々ではないかと考える。
早い話が、擦文文化人の末裔。

赤線で分岐させ、紫線(北方からの移住集団)が混ざり、「2」に当たるのがアイノ文化集団。
この内分岐の主な部分が、乙名ら支配層。
これらが移住者を労働者層として使役し、場所支配人らと協力し生産力を生み出したと考える。
故に宗教具らは支配層の影響を残し、移住集団が増えるにつれ文化色や言語色が強まった…これで説明はつくだろう。
何も難しい事はない。
埴原モデルの類するものが江戸期に発生した、これで説明出来る。
一般研究で支持されたモデルだ。
それに基き、説明したまでの事。
近世の矛盾点はこれである程度説明可能ではないだろうか?
ここで図の「1」はその後どうなるか?
多くの北海道民の祖と言う事は、後(江戸期)の移住者らと混雑し「2」の集団より先に同化してしまう事になる。
普通に暮らしているから、特段なんの痕跡も残さず普通に働き、子を育て暮らしてたのでは?
「2」の集団の中から「本道アイノ」と呼ばれ、絵図らに記載される集団が出来る訳だ。

ここで移住者と言うと、一部の方々は直ぐに「侵略者だー」などと騒ぎ出す。
まぁ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333
秋田県史にあるように、ロシア黒船から密入国した者を黒船へ強制送還した記録はある。
海防ラインが広大なので、これらを100%防ぐのはムリだったであろう。
現代であっても、北朝鮮の漁船が漂着し家のドアを叩いた事例はある位。
だが、待って戴きたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847
加賀家文書らにあるようにこの時代に「2」の集団は、宗門改の都合や生産力管理の為に運上屋や会所で戸籍管理されている。
居住者、旅土人ら含めてだ。
これが後、明治での戸籍のベースであろうし、旧土人保護法対象者の原本ではないのか?
つまり、運上屋,会所が身分保証し、それを函館奉行所,警備諸藩が承認して逆に運上屋,会所に貸し出す形で、時の統治者が認めていたと言う事になる。
もう、この段階で「日本人」なのだ。
別に戸籍制度は明治政府が100%始めた訳ではない。
壬申戸籍が最初と言うなら、本州人も同じ事。
移住しようが、場所で戸籍に乗ればそういう事になるだろう。

さて、もう一点。
・上記の「2」の集団だが、特異性ばかり強調されるが、我々的には現状語られる文化より、もっと同化されていたであろうと思う。
理由は簡単。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/17/190440
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031
時空のシャッフル。
さらに言えば、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430
観光アイノとして、学術的調査以前から樺太の文化らが取り入れられていたのは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
これらで明らかで、研究者は樺太のものだと知っている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/19/204031
ましてや建築系の研究でも観光用の建物がそのデータに混ざる。
さて、観光アイノが始まったのは明治の初めで、白老や旭川からとされる。
現実として、従来ポツリポツリ住んでいた人々を集めて集団居住させたのが、各地に残る「コタン」。
この段階で、新規に作られたり、同化政策が当てはめられた。
古い時代そのもののものは、既にこの段階で殆ど無いだろう。
ここで、学問創成期の一人、金田一京助博士が北海道の言語収集を始めたのが何時なのか?
明治39年が初訪道。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/28/203440
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
既に学校建設が進み、旧土人保護法改定と同じ年。
英国領事による盗掘事件は幕末。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/08/194417
海外で騒ぎ出すのはこの頃で、アイノ文化研究は海外先行。
次もにバチェラーの辞典は世に出、日本人による学術的調査は数十年遅れをとる。
観光アイノが先なのだ。
近代化過程の話なので致し方ない。
故に、金田一博士も河野廣道博士らも、地域差ら含めて調査しようとしていた。
現状は?
先の通り、時空のシャッフルが進む。
二つ目の指摘は、「学術的研究と観光用に作られた物を混ぜるな」…である。
政府広報らで広げられていて且つ教育の場に持ち込まれているのは、主にこの「観光アイノ」の色が強いもの。
ムックリがごちゃまぜになっている段階でさもあらん。


近世以後の現状の学びを簡単に纏めると、こんな感じに見える。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/27/205924
吉田菊太郎翁や荒井源次郎氏等協会第一世代が忌み嫌う事をまともにやっている。
それも拠点が荒井源次郎氏が名指しした「白老」と言うのが、我々的には大いに笑えるところ。
大体、「白老」に陣屋を置いたのは何藩だ?
更に笑える。
ただ、上記の如く、これらは基本的に文化財保護や教育行政も含む「地方行政上の問題」。
我々メンバーの中でも口を出せるのは、道民のみ。
当然の事。
基本的に各教育委員会はそれぞれ独立している。
国会や文科省からも強制出来る話ではないし、道から市町村からも独立している。
議会が予算の承認権は持つだろうが。
まぁ、北海道の皆さんがこのままで良いのなら、それで終わり。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/04/174109
なので、こんな提言をしていたが。

我々の見え方を信じる必要はない。
それぞれがどう歴史と向き合い、先祖の営みを見るか?…それは個人の自由だ。
ぶっちゃけた話、所謂活動家や地方役人、教育行政に携わる人々は上記程度は知っている。
そりゃそうだ。
仮にも学問として習得しているのだから。
矛盾点位熟知した上で「意図して」ストーリーを組み立てているだろう。
知らぬハズなし。
活動家紛いに「道民は勉強していない」と嘲笑されていたとしても、我々には関係ないし、地方行政上の問題。

それらは、我々が関知する事では無い。

この時点での、公式見解-44…「余市町史」に見る寛文九年蝦夷乱での余市の動向と「八郎右衛門」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/06/29/105815
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/203950
さて、北海道の弾丸ツアー、石垣確認が季節柄ムリと解った段階で、余市町の史跡巡りはした。
たまたま「フゴッペ洞窟」でたまたま「余市町史」が売っていたので幾つか即購入。
筆者の場合、まず市町村史書らをざっと読み、疑問に思った事を掘り下げるのが定石。
では、その中から今迄も取り上げてきたテーマを少々広げてみよう。
関連項は当然こちら。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/26/170401
今回は、「寛文九年蝦夷乱」での余市の乙名達はどう動いたか?である。

まずは前提…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/20/185453
江戸中期辺りから始まったと言われる「場所請負制」。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/20/193847
その片鱗を「加賀家文書」で学んでみた。
では、その前は?
「商場知行制」。
解りやすい事例はこれかも知れない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/12/19/17092
厚岸の商場へ訪れた「オリ」。
商場の知行権を得た藩士が、部下,商人,船乗りらを設定された商場(場所)へ赴き、取引をして、その利益を得るというもの。
船の数等は松前藩で設定されていた模様。
安東氏が大殿をやっていた時期と松前藩成立後の最大の違いはここらしい。

「それまでアイヌは、自分たちの船に公益品を積んで、松前はもちろん、津軽や南部まで自由に交易に出かけていました。〜中略〜商場知行制が布かれてからは、アイヌは自分たちの地に縛りつけられ、自由な交易の権利を失ったのです。」

余市町史 通説編2 近世1」 余市町史編さん室 平成28.2.20 より引用…

松前藩が秀吉や家康から交付された朱印状,黒印状には、確かに独占交易権を許可されたとある。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/04/103624
中世港湾遺跡を持つと考えられる余市は、樺太余市〜東北と考えられる商圏の中継湊となるであろうから、規模縮小は否めない。

で、大いなる疑問…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/06/27/075543
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/24/145700
松前は良いとして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/14/201908
南部も良いとして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/24/205912
津軽も良いとして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/30/195833
國は甚大にして都より三百レグワあり、彼等の中にゲワ(出羽)、の國の大なる町アキタ(秋田)、と稱する日本の地に來り、交易をなす者多し…は、何処へ?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/01/061623
こんな風に、象潟からフラリと稼ぎに行き、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/02/083230
何より、大殿は何度か出撃しているが。
そう。
古代の秋田城にして、中世の十三湊安東氏,桧山(下国)安東氏,湊(上国)安東氏らは、新しく発行された地方史書には殆ど記載無い。
秋田は番外…
余市町市では、この「商場知行制」が生活様式の変化を生んだとしてるが、添付した通り、取引した文物はそんなに変化シているのか?
食料,着物,鉄器類…あまり変わってはいないが。


と、言う訳で、本題に移る。
寛文九年蝦夷乱での余市の動向。
結論から言うと、
・商船襲撃を行い、多数の死傷者を出している。
・染退の惣乙名、シャクシャインの蜂起には不参加。
となる。
なかなか微妙な立ち位置だが…
では余市町史が語るそれを要約。


西蝦夷地の被害
・襲撃された船→11艘(渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書)
・死者→143名(津軽一統志)
それぞれ古書により数が違い、要精査。
東西共に士族はあまり居らず、ほぼ百姓。


蜂起の理由とその動向
余市側から津軽藩の牧只右衛門に対して(津軽一統志)、
シャクシャインから商船襲撃の依頼が来た
シャクシャインからは、下国の(東の)大将二~三人が松前に毒殺された事を聞き、上国でも同様になるとの話だった
・これらで襲撃したのは間違い無し
・元々ニ斗入りの米俵が七~八升しか入っていなくなり、更に約束の上俵物(アワビ)が不足していたところ翌年より数量を増やされて出来なくば子供を質に取られる
・二代松前公広の代では慈悲深かったが、商場が蠣崎(蔵人)廣林になってから強引な政策に変わり、これでは飢える
シャクシャインからの呼びかけに対しては「我々同心不仕候処に、右の通松前より狄共渇命に及申候罷候得は、一食も続不申故、狄とも相談にて商船ふみつふし申候」…
つまり平たく言えば「お前らとは同じ考えではない。あくまでも松前の政策で狄共に飢える為、狄と相談の上襲撃した」という感じか。
津軽の牧只右衛門へ対しては「従前の様に松前始め、津軽や南部へ行ける様にしてもらえないか?」と要望の上、従前同様なれば商船襲撃などやらないと訴えたと記載されるという。
かの、石狩の惣乙名、ハウカセの松前に対するタンカ(松前なぞ弾いて高岡へ行くというもの)は、ここでは余市側が牧へ話ししたとある。
実際、余市は知行主蠣崎(蔵人)廣林からの押し買いを受けても、当初は敢えて敵対はしていなかった様で、藩に近い「御味方蝦夷」だったと余市町史では解釈している。
また、西蝦夷地が不穏として松前藩が進軍し、話し合いの場を設けた際の話として、利尻や宗谷の大将も、(ツクナイの品を差し出し)講和するはやむを得ず、決裂して商船が来ないのでは生活が成り立たないとまで訴えている。
因みに利尻,宗谷は襲撃不参加。
この段階で、米や衣類、鉄器らは山丹交易らを中心とする利尻,宗谷では全くもって本州依存だった事を伺わせる。
結果的には添付関連項の様に「誓詞提出」まで行い講和へ。
西は西の事情で動いており、シャクシャインに同調,従属して襲撃した訳ではないとしている。
実際、タンカを切ったハウカセを交易の支障になると諌めたのは余市の惣乙名だとか。


その時点での余市は?
津軽一統志にある余市周辺の状況は、
商場は
・ひくに
・古平
余市
・忍路
・しくつし
で、それぞれに大将が居た様だが、余市だけは四人もの大将が記録され、規模が大きかったと推測される。
・サノカヘイン
・ケウラケ
カエラレチ
・八郎右衛門(惣乙名)
八郎右衛門の詳細は記載なく不明。
少なからず、松前藩や本州との繋がりが深い人物ではないかと余市町のHPでは記載ある。
とはいえ、津軽一統志上、本州同様の名前の表記は八郎右衛門に限った事ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
牧只右衛門の従者も津軽狄村の「万五郎」だったり、東へ向かったのが「四郎三郎」。
更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/03/21/194111
松前独立直後の元大殿である秋田(安東)実季にアシカ皮を送った「安養寺久左衛門」なる人物の例もある。
これは「算用状」なので、史料としての確度は高いのではないか?
昨今としては驚きはしない。

まぁ津軽一統志は津軽藩士の目線。
当然、出撃の対価として交易権を得たいではあろうので、そこは史料精査の上では考慮の必要はあるだろう。
概ねこんな感じである。


では、気になる点を…


津軽一統志では、西を上国、東を下国と表現している様だ。
上記、金田一博士の記述では、西蝦夷地では日ノ本将軍配下として歓待された様な記述がある。
この日ノ本将軍こそ、安東氏の事。
ここで…
上国…湊(上国)安東氏→秋田湊
下国…桧山(下国)安東氏→十三湊,桧山湊
それぞれを示すと各姓と一致してくる。
元々室町期位での統治者はこんな風に担当していたか?とも想像可能だろう。
総括していたであろう十三湊時代や東公島渡りを行い桧山と湊を統合した安東舜季と愛季,実季らは両方への実力行使が可能だったであろうが。
ここで疑問なのが、何故北海道に上国氏を名乗る者が登場しないのか?
いずれにしても、現在北海道の史書上、安東氏が消されているのは確か。
この傾向は何故?
宿題である。


上記を再度。
「我々同心不仕候処に、右の通松前より狄共渇命に及申候罷候得は、一食も続不申故、狄とも相談にて商船ふみつふし申候」…

余市の大将は、
・狄共渇命に及
・狄とも相談にて
こう語っていると言っている。
この表現なら、「自分と「狄」は別である」事にならないか?だ。
これだとまるで(狄ではない)自分が狄を率いている様な表現になっている。
グループで話す様になり、当初から想定していたが、階層社会のキツさも加味すると、惣乙名や大将級が元々安東氏配下の武将の末裔で、それらが樺太,千島らの人々を使役層として集め配下として使っていたのではないか?だ。


仮説,推論,妄想はここまで。
古文記載らへの見識も広げ、ゆっくり学んでいこうではないか。
が、これなら中世の武具が各地でみつかるのも矛盾が無くなってくるのだが。
余市ホットスポットである。
これは間違いがない。





参考文献:

余市町史 通説編2 近世1」 余市町史編さん室 平成28.2.20

建築系論文に見られる「時空のシャッフル」…「学術」と「観光」の区別はあるのか? ※追記有り

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/17/190440
前項をこれとする。
広義の関連項はこれら。
「チセ」であるが…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/29/202212
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/05/23/194902
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/06/081134
むしろ関係するのは「写真」。

経緯を書こう。
筆者の北海道でのフィールドワークとは別に、当然ながら他のメンバーはそれぞれ資料館へ行ってみたり、論文らを探したりしている。
そんな中のディスカッションである。
あるメンバーが資料館見学時、写真を見つけた。
勿論、そこに住んでいた酋長のもの。
で、目の前の漆器とを見ながら質問したとの事。
当然、毎度の事だが、古いものはない。
どうやって入手したか?
→熊の毛皮と交換…いや実は、近代以降買ったものだという。
まぁ今迄も漆器については、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/123150
比較的古いであろう幕末なら、こんな入手手段を。また、新しいものは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/070913
漆器屋への直接インタビューでの、明治,大正にダブついたものを売り捌いた話もある。
ハッキリ言って「買った」としても然もあらん…裏が取れた程度の事で驚きはしない。
珍重した…などと言っても、壊れりゃ捨てる、これは余市の大川遺跡に捨てられたと思われる破片が検出されるから、そんなもんだで終了。
問題は、それを買った時期と誰が買ったのか?。
資料館での質問では「……」で終了だった様だ。

ここで問題になったのが写真。
歴代酋長の写真はあるが、なら、北海道で写真が撮られる様になったのは何時なのか?
日本最古の銀板写真は、ペリー来航時の松前勘解由らを写したもの。
筆者の知る限りでは、開拓使が記録用として撮影されたものが北大に保管されており、これが明治20年代位以降からと記憶している。その中の一枚が、関連項の茅葺き民家。
何せ写真自体が異常に貴重な時代。
マチュア向け国産カメラは1903(明治36)年に小西本店が最初…とばかりに、事実関係を検索する。

最も古い時代の酋長は明治九年没。
ならこれは、一時遺影らで使われたような「絵」ではないか?
こんな感じ。

そんな中、メンバーが何気に検索してきた建築物の論文があった。
それは、建築物としてのチセの外観的傾向や変遷を残された写真から紐解こうと言うもの。
これらの研究は研究者が少なく、その論文によると、2008年の小林考ニ氏が発掘調査報告〜18世紀以後の絵図から読み解いたものを皮切りとして、少しずつアプローチを広げ、1960年代のチセ消滅まで繋ごうと言う流れである。
この論文では、写真が残る1860〜1950年代へアプローチしている。
内容も、寄棟屋根,切妻屋根,変形屋根の3種類に住居を類型化しつつ、主屋と付属屋の関係分類を行い、年代的な特徴を明らかにしようと言うもの。
関連項にある様に、1959(昭和34)年に萱野茂氏が再現チセ第一号を建築したが、その前を繋げる事になる。
ハッキリ言って、割と再現チセはあちこちの資料館展示では同じ様な形ばかりだが、実際に写真から分類すれば、10種類に分類可能なのだそうだ。
年代での傾向なので、地域柄までは加味されては居ない様だ。
それは、写真点数が限定される事もあるかも知れない。
と、言う訳で「空間のシャッフル」はされてしまっているのかも知れない。
現実、アイノの民族問題は、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/11/115652
近文古潭らの旧土人保護法らへの対応で、1900(明治30)年代から醸成されて行く。
本来それまでは移動痕跡あれど、それぞれバラバラで地域柄は考慮すべきと我々的には考えている。
資料が薄いとは言え…良いのだろうか?
と、別に論文に反論している訳ではない。
時間軸をシャッフルせず、まずはここをキッカケに整理すべき内容であろうからだ。
そう考えると、研究者への敬意しかない…
但し、一点、これはどうか?と考える点を除いてだ。


では、ここから先はズバリ書こうと思う。
その論文には当然参照した写真と何時何処で撮影されたか?が記載される。
下記の右上の写真を見て欲しい。

資料の表の中には1940(昭和15)年に白老で撮影されたもの。
これを近文に当てはめれば、旧土人保護法による管理委員会が出来たのが1933(昭和8)年。
早い話、チセが激減するのは、彼らが新生活を始めるに当たり、政府や道、旭川市らと約束し準備された「家」に入る事からだろう。
全く当然の話なのだ。
そして、問題は写真にある立て札である。
「熊狩ノ名人」
「熊狩お話致します」
「古い寶物澤山有ります」…
つまり、この家は、白老の「観光アイノ」であろうと言う事になる。

さて、観光アイノと言えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/27/205924
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430
吉田菊太郎翁や荒井源次郎氏が忌み嫌い、白老に至っては、名指しで「本州の者と一部が結託し辱める」とまで言われ、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/27/202733
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417
ムックリ等楽器を見ても、樺太の文化を本道ものと見える様に説明し、熊の置物は八雲町の徳川氏が展開し、ウポポ人形は本来ご法度、トーテムポールの文化無し…と言う物。
つまり「時空のシャッフル」が確実にされていた場所の写真をデータ中に「取り込んでしまっている」事になる。

論文査読らで指摘は無かったのか?
査読無しなら、担当教授らの指導は無かったのか?
文化として全体からの検証はしてたのか?
これ…良いのだろうか?
まぁ現実的には、この論文が検索でヒットし、ダウンロード出来るのは確かである。
指導も指摘も無かったと考えねばなるまい。
政府広報らでも、これらは平気で行われてるので、学会ごとこんな風に「観光アイノを真実として扱う」風潮なのだろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/05/25/212430
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/08/194417
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/28/205158
再三書いているが、アイノ文化の研究は海外が先行、同時期に「観光アイノ」が登場し、金田一博士ら我が国の学術研究は後追いになっている。
故に一部シャッフルされているのを紐解かなければならない宿命を持つ。
が、現実的にはこんな風にシャッフルされたままで、協会初期を率いたリーダー達が忌み嫌った「観光アイノを含めた」研究が未だされているのだろう。

恐らく「時空のシャッフル」は数多の論文の中にまだあるであろう。
そして、写真らシャッフルした物証も本件以外にも残されているだろう。

巷では、
「系統立てた学問」
史料批判の重要性」
専門家や研究者がよく使っているが…これ、なぁに?

素人的には不思議でならない。
内容は素晴らしいのだが…残念で無念である。




※追記
参考文献:
1860年代から1950年代の写真資料におけるアイヌ民族の住居の外観的特徴」 佐久間/羽深 『札幌市立大学研究論文集5巻1号』 2011.3.31

弾丸ツアーで見えたもの…時間軸と空間のシャッフル

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/103840
少々書くのを迷ったが、まぁ筆者の主観による「感想」と言う事で残して置こうと思う。
と、言うか、グループ内では前から「そうかもねー」などと話していたのだが、自分で見ちゃえば「あー、やっぱり」に変わる訳で。

結論から言えば…
「時間軸と空間がシャッフルされて解釈されている」…と言う事になる。

何を言っているのか解らない?
では、少し噛み砕いてみよう。

①時間軸…
例えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/04/25/112130
この様に、北海道史では中世遺跡が欠落していて、その間どのようだったのか?が立証出来ない。
コシャマインの乱とて、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
こうだし、十二舘すらこう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/02/13/210459
今のところ、見つかってないものは無い。

例えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/14/211625
アイノ文化期あるあるで、古そうなものの展示がない。
これも実は、江戸初期の各火山灰降灰で被覆されたところから、幕末らの絵図の出現まで実は物的には空白がある。
なら、その遺物は本当にアイノ文化のものなのか?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/02/12/194837
こんな話もあるんだが。
何より、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/27/052730
そこで住み続ける事が可能だったのか?
それを立証出来るか?
無理なのです。そこが空白の期間なんで。

例えば…
これは、明治でも同様。
何せ樺太の楽器文化「ムックリ」を、本道の文化に混ぜて展示しているんだから。
対雁への移住後の話の可能性が強くなる。
まぁムックリってこうなんで。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/26/174417

例えば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841
同じ蜂起として、寛文九年蝦夷乱と寛政元年蝦夷乱を平気で括るが、背景がまるで違うやら。
弾圧がとは言え北海道の統治者は、松前藩→一次幕府直轄→松前藩→二次幕府直轄etc…と変化し、その時に応じて方針は変わっているし、施策も変わる。
でも、そんな細かい事は資料館展示らで反映される事も無い。

では、何故そんな事が起こるのか?
「空白あれど、その前も同様として遡る」様に解釈している様だ。
何せ「アイノ文化期」と一括で資料館展示していたりする。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
まぁ、これと同様。
繋がっているか立証出来ないが「繋がっているに違いない」としてくっつける…時間軸の圧縮とシャッフルを行っている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/10/30/133440
更に「諏訪大明神画詞」とはこんな巻物。


では、空間は?
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/09/13/205841

※元文~天明元年(1739~1781)より、蝦夷地知行地及び知行主を示す書状が現れる

知行制が確実に始まったのはこの辺。
それ以前は史料が無い。
さて、ざっくり言えば
・知行制…
藩主から、場所の民衆の統治権と税の徴収権を預かる
・俸禄制…
藩主から、身分や仕事に対する対価(米やお金)を貰う
その史料が無い時期がどちらであろうか?
判然とはしない模様。
現実的には、
海と山の産物の差…
東西南北の取れ高の差…
藩主の方針…
知行主の方針…
商人の考え…
地域柄は出るのだが、西蝦夷地の事象に東蝦夷地の内容を絡ませてみたり、その逆をやってみたりは、地方史書を読んで戴ければ良く解る。度々行われているから。
ましてや上記の様に、知行主の存在が立証出来ないのに、乙名は誰と揉めて蜂起に至ったのか?
史書上で見た事がない。
具体的な事例が記載されてるのか?
書状らの史料は?
新北海道史にすら無いのに。
でっかいどー、北海道…西と東で環境が違い、山と海では環境が違う。
それなのに、知行主の方針が一緒で施策も一緒って、あり得るのか?
大体、人口は西>東なのは知れた話。
知行主の方針が同じなら、東の方は人手不足になるだろうが…
これもシャッフルと言わざるをえず。

「解明されていない」「空白がある」…
これはハッキリ示すべきだと考える。
又、展示物に概ねどの時代の物なのか?は記載すべき。
降灰前の江戸初期か(考古学資料はそうなるだろう)?
寄贈品でも、漆器が幕末か明治か大正か?
解らないなら寄贈品カテゴリーで××コレクションとして括れば良いのでは?


連々書いてきたが、時空のシャッフルはこんな風に行われてるのだろう。
それは、今後段々酷くなる。
何故なら、シャッフルされた内容で教育を受けてるんだから。
それを物語るのがこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/103840

『二箇所の資料館で「アイノ文化の特異性」を強調されたが、筆者はそれにこう答えた。
「全く逆に共通性が非常に目についた」と。
目を丸くされたが、漆塗、古墳、蕨手刀、勾玉、御幣、刺し子、間切包丁と拵に施した彫刻etc…見慣れたもんばかり。
何が特異なのか?
現に江別古墳群で大笑いした自分が発した言葉は、「まんまやん」。』

シャッフルされた教育を受けてない筆者にとっては「あれ?」としか思えない。
これから「現地の展示を見る」事例か増えて来るのが楽しみでならない。
毎度言っているが、「開拓による遺跡破壊」も「観光アイノ」も、学術調査より先である事を忘れてはいけない。
で、それを今更嘆いてもしょうがない。
研究を深化させ、「確からしさ」を上げていくのみ。
それだけの事。

もう一つの余市町の石垣…「大崎山遺跡」とは何か?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/203950
折角資料を入手したのだから、前項で登場したもう一つの石垣、「大崎山遺跡」について書いておこう。

まずは…
前項で紹介した石積,石塁を伴う遺構は、我々が知る限り4箇所。
・茂入山城跡…昭和35.3.22
・シリパケールン群(註:登録名ママ)…昭和35.3.22
・旧ヤマウス稲荷社階段跡…昭和51.5.24
この3箇所は、町の文化財指定されている。
だが「大崎山遺跡」は文化財指定はされていない様だ。


では、経緯から。
昭和31年、役場職員が発見。
同37年に、郷土研究会が先住民遺構と確認。
同38~39年に、道専門家による予備調査で石塁(石垣),石積遺構である事を確認。
調査団結成。
同40年に一次調査、同41年に二次調査が行われた。
遺跡の場所は余市町沢町の標高124mの丘陵の20~30度の緩傾斜面で下にはヌッチ川が流れる。
目視で行われた予備調査では、
・石塁(石垣)遺構が数条
・石積遺構が約100基
が点在するエリアが約1kmの長さで広がっている。
ディスカッションでは、
・人工構築物で間違い無い
・道内では、近隣の尻場山「シリパケルン」以外には類例無し。
・先住民のものと考えられるが、アイノのものではない(石垣構築類例無し)。
・フゴッペ洞窟や手宮洞窟らに似た洞窟線刻が大陸にある事から拡大し類例を探すと、モンゴルら大陸系の墳墓に似た物はあるが、ハッキリ言い切れない。
・一部明治以降積上げられたと思われる部分や石取り場として利用されたと見える部分もある。
らの意見が出されている。
その後の発掘は2度に分けられ、
・一次調査…
全体把握と1基の完全解体、及び周囲の発掘を目標に進められたが、日数と費用の都合で、1基の部分解体と周囲の発掘で終了。
・二次調査…
区切ったエリアでの遺構把握、一次で部分解体した遺構の継続完全解体と、もう1基の完全解体で内部構造を明らかにする。
これらを目標に作業は進められた。


①エリアの遺構配置や基本構造
約25度の傾斜地に、
・石塁(石垣)遺構は13条
長さ…約100m前後、最長170m
幅…約1.5m
高さ…約1~3m
・石積遺構は23基

長さ…約5~12m
幅…約3~5m
高さ…約1.5~3m
で、馬蹄形、長方形、楕円形らに、斜面に階段(1~5段)状に構築されている。
石塁遺構は、恰も石積遺構の外郭を成す様かの様に配置される。

基本構造は、
・岩質は近辺で採れる安山岩
・使用される石は
大…50cm程度
中…20cm程度
小…7cm程度
で、外側を大の石で囲い、中を中小の石で詰める形。
石積遺構の場合、それを下段から順に積み上げている模様。

②発掘調査…
遺構周囲の層序は
1層…黒色土、15cm
2層…黄色粘度層(地山)

一次調査で部分解体し二次調査で完全解体した遺構のsizeは、
長さ…約11m
幅…約4.5m
高さ…約2m
二次調査で追加完全解体した遺構のsizeは、
長さ…約9m
幅…約3.7m
高さ…約1.2m
それぞれ、最底部の中央付近にはピットか掘ってある。

遺物は石積遺構周辺の2層上面から、僅かに縄文土器,石器が出土するも、遺構との関連性は判然としない。
ピット内は有機質の黒色土層で、追加完全解体のものでは木炭末が検出された。
それ以外の遺物は無い。
概略は以上である。


さて、余市水産博物館で戴いた資料は三部だが、それぞれ10ページ程度の簡素なもの。
理由は殆ど遺物が無いから。
つまり、
・何時構築された?
・誰が構築した?
・何の目的で構築した?
これらに対するヒントになるような物が一切無いのだ。
一応、課題として、
・燐の含有量測定(燐が多ければ「墳墓」の可能性がある)
・C14炭素年代測定
この二点の実施と、発掘調査に参加した高倉新一郎博士、東大考古学研究室の斉藤忠博士から、文化財指定の申請をしたらどうか?との提案がなされ申請を決定している。

だが、課題の各測定の結果は入手出来ておらず、文化財指定申請も上記の通りやられた形跡は無い。
似たものの話として、上記ディスカッションで出た様に、開墾時に邪魔な石を積んだ等と言う話をネット上で見た事があるが、実はこんな規模で構築されていた物。
これを野面積みで開墾の片手間で構築可能なのか?
何せ、この周囲には果樹園になっている場所もあり、発掘時に邪魔だが伐採出来ず、そのままやった経緯も書いている。
つまり、果樹農家が農園拡大の上で邪魔でも破壊する手間すら惜しんだという事なのでは?。
そうなれば、これら遺構は開墾以前からここにあり、放置してきた事になる。
全く何をとっても、辻褄が合わないのだ。


前項の通り、博物館にはこの他にも石垣が無いのか?確認のお願いはしたのだが。
筆者はまだある、それも余市川の北側の幾つかある丘陵ではないかと妄想している。
理由は簡単。
フゴッペ洞窟周辺の丘陵は砂岩質の様で。
そして、それより忍路側の

西崎山ストーンサークルは尻場山から安山岩を運んで構築されているとか。
石塁や石積を組むなら、地で手に入れるのではないか?

邪推はここまで。
何を考えるにもヒントが少な過ぎる。
さぁ、大崎山の遺構は、何時、誰が、何の為に構築したのか?
余市には、まだまだ謎がある。
ホットスポットなのは間違いがない。



参考文献:

余市町大崎山遺跡第一次調査概要」 大崎山遺跡調査団 昭和40.9

余市町大崎山遺跡について」 高倉新一郎/大場利夫 『北方文化研究報告 第二十輯別冊』 昭和40.12

「昭和42年度余市町大崎山遺跡発掘調査報告書」 余市町教育委員会 昭和43

弾丸ツアー報告-3、本命余市編…茂入山に石垣はあったか?、いや、そんな生易しい話ではない古の余市の姿

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/07/15/103840
さて、弾丸ツアー報告第三弾は、北海道行の目的大本命の余市
勿論、その目的は…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/164447
これ。
茂入山にある野面積みの石垣を探し出す事。
何せ、筆者が半分冗談で「ここなら城柵作るな」と言ったことから、誰も知らない余市町指定文化財「茂入山城跡」に至ってしまった訳で、言い出しっぺは筆者。
何人かアタックしてはいるが、まだ見てはいない。
事前に周辺を周り、お寺さんに聞き取りをしたところ、子供の頃に見たことがある…なんて話は聞いたので、入魂…

結果から報告すれば…
見る事は出来なかった…である。
先によいち水産博物館に開店ラッシュし展示を見た上で、幾つかの質問とこの石垣の話をしたところ、場所を教えて戴けるとの事なので、行ってみたが…
背丈を超える程のヤブになっており、説明では複数の井戸?(穴があり水が湧いている)があり、ヤブで見落とすと危険なんだそうで。
一応、私有地なので草刈が勝手に出来る訳ではない。
博物館でも学習の為に入るのは許可を受けてるとの事だが、何かあったらそれすら危なくなる。
又、蜂や蛇らが多くそのリスクもある。
よって素直に断念した。
曰く…「今が最悪の時期」
と、言うわけで、場所についての情報を戴く。

元々この茂入山には温泉施設を作り、「茂入山城跡」と博物館を併設する話で進められた様だ。
地図の赤丸の部分が旧温泉施設のあった場所。
温泉施設が営業を止めた後も博物館が残ったという経緯の模様。
石垣は、博物館から見て温泉施設の先に構築されており、ヤブになっていなければ手前側は膝丈位の石垣が直ぐ解るとの話。
概ね青線付近になる。
確かに、事前のお寺さんでの話でも、石垣は高い辺りにあったとの事。
先にアタックされた方と位置を整合してみたが、ほんの手前までは辿り着いていた模様で、やはりヤブに邪魔されて入れなかった様だ。
ヤブが枯れる時期に再アタックという目標に至った。
つまりこの石垣は、南斜面、余市川方面に向けて構築されている事になる。
博物館では、寛文九年蝦夷乱に纏わる構築を示唆している様だが、やはり学術調査は入っておらず、頂上付近は近世ニシン干場や畑として使われていたとの事で、撹乱されてる恐れが強いのも確か。
学術調査は未実施で、真の構築時期らは全く不明。
と、言うわけで茂入山突撃は断念…
で、終わるハズもない。

実は、事前の話で、余市には茂入山以外にも石垣と思われるものがある話を仕入れていたので、そちらを確認した。
余市の石垣,は「茂入山だけではない」のだ。
・茂入山城跡
・旧ヤマウス稲荷社石垣階段跡
これが町指定文化財
その他に、
・シリパケルン
・大崎山遺跡
現状解っているだけでこの4箇所。
この中で、旧ヤマウス稲荷社石垣階段跡は、以前メンバーが行った事があるが、足を踏み入れる事が出来た。



階段の手前側は整形された石の石積だが、ヤブの中の奥側の石垣は野面積みに近い事が解る。
シリパケルンは確認出来ていないが、尻場山の中であろう。
その流れであろうか?
一応、博物館の説明では旧ヤマウス稲荷社建立時(1827年)に作られたと想定しているが…

さて、大崎山遺跡。
博物館から戴いた資料によると、
余市町沢町のヌッチ川に面する台地斜面にあるとの事。
ここは都合2回調査しているが、石積遺構と(土坑伴う)石塁遺構が複数検出され、石積遺構一基と石塁遺構二基が発掘されている(1665~1666年)。
石積遺構…

石塁遺構…

遺構配置…

この様な感じ。
高さ1~3m、長さ100m程度の物が複数となるので、かなりの規模である。
これら見ると、津軽一統志に記載ある「古城」とは何を指すのか?訳が解らない。
発掘時、遺物の検出は全く無く(少数の縄文土器破片と石塁遺構内の土坑に一部焼土跡有り)、その時点での年代特定らには至らず、発掘者側から文化財指定らを提案しているが、やられた形跡は無い。
又、焼土跡のC14年代測定らも検討事項としているが、これも解らないのが実状。
一応博物館には、他にも石垣の様な遺構が無いのか?確認依頼を入れている。
さて、茂入山同等の石垣が確認出来たところで、位置関係を推定してみる。

尻場山、茂入山、消失した天内山、そして大崎山遺跡の位置関係は概ねこの様な形と推定される。
先の茂入山麓のお寺さんでの聞き取り時、「余市の街は現状の港がある付近が古い街」だとの事。
そのお寺さんは大正の建立で、その付近の開発は、港付近より遅れていたらしい。
実は以前余市を確認していたところ、永全寺という曹洞宗のお寺があり、創建不明だが825年の紀年がある薬師如来厨子があるとか。
失念し参拝が抜けてしまったのが悔やまれる。
上下ヨイチ場所がこのエリアにあった事からも、江戸期に開けたのはこの辺であろう。
それを考慮すると…
大川,入船遺跡らは、
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/04/04/103624
中世港湾と思われる遺構や多数の墳墓跡があったことから、街の端であろう事は想像に優しい。
居住区はそれらより内側。
古いであろう寺社との位置関係と石垣を見た場合、主な政治的拠点は、
①大崎山からの丘陵の北側、茂入山と天内山でガードされた地区
②現円山公園から南に伸びる丘陵上
この辺ではなかろうか?
また、石垣の構築は、
阿倍比羅夫が指示した「政所」に伴う…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331
何せ、秋田の「払田柵」は頁岩の石垣を持つ。
だが、この時代のものとして一部でも埋もれず検出出来るものか?
余市では、Ta-bら火山灰の影響は殆ど無い様だが。
②中世の蝦夷管領の支配に伴う…
安東氏配下によるもの。
但し、十三湊や檜山ら秋田の城館に石垣を持つ物はない。
③金堀及びキリシタンらによる…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/07/10/212151
福山城石垣を構築したのは、千軒岳の金堀やそれに含まれるキリシタン達。
茂入山城跡での博物館推定はこの辺の時代を見込んでおり、寛文九年蝦夷乱に対峙する為に松前藩が構築したか、余市惣乙名「八郎右衛門」の古城らと同年代と推定する様だ。
但しその場合、(土坑を伴う)石塁遺構の役目が全く解らなくなる。
今のところ、何を想定しても少々微妙である。
この様に石垣探しが、あまり知られていない古の余市の様子を浮かび上がらせる事になってきたのも因縁めいている。
これらは現在発行される「余市町史」にはほぼ記載が無い。


余市での博物館への確認依頼はもう一点。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/07/200651
大川遺跡では、中世一時のみ製作された材質の硯が出土している。
これの出土位置、つまり中世に使用された物と特定可能か?と、擦文(平安)期の墨書土器が余市で書かれた場合は硯が必要となる。これに合致する(須恵器や土師器の転用硯を含む)硯の出土が無かったか?
この二点も確認戴く事をお願いした。
有らば、識字率は兎も角として、乙名の様な施政者は文字が使えた可能性が出てくる。
これについては、驚く事ではない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2022/01/08/120652
断片なら幾つか捉えており、文字が使える者が居ても、全く矛盾はしない。
むしろ、「アイノ文化に文字は無かった」という巷で言われる汚名を晴らす事が可能になる。
何の問題もない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/11/12/203509
吉田菊太郎翁の墓前に報告したいものだ。
ちゃんと乙名らは文字を駆使出来ていた、劣ってなんかいなかったと。


さて、連々綴って来たが、弾丸ツアー報告はここまで。
もっと細かい話もあるが、まずは筆者自身でもその地に立つ事が出来た。
地形や風の匂いを感じ、先祖達がどう考え行動したか?を考えるには良い機会だったと思う。
石垣探しは、かなり深みに嵌まって来た感も拭えないが、継続こそ力であろう。

またいつか、北海道の地を踏む事を祈念しつつ、この項は筆を置こうではないか。
関わった方々や雑談に応じて下さった方々、そして突然なのに協力して下さった方々へ深謝。

ありがとうございました。
勉強になりました。