古代,中世北海道に文字は…必ずある

北海道に近代迄、文字は無かった…概ねこう言われている。それは本当なのか?
我々の見解は「NO」。必ず有った。
理由は簡単、旧松前領外とされる場所にも寺も神社も有るから。
例えば…
有珠善光寺は826年慈覚大師の開山伝承、後に1613年松前慶広が如来堂再建。つまり、中世には存在した。
神社では、江差の姥神大神宮は1216年に建立されたとされる…「旧松前領外」である。
宮司や和尚が文字を知らない…有り得ません。現に、1300年代に成立した「諏訪大明神画詞」では蝦夷地への言及があり、報告した存在を伺わせる。まして、写経しないお坊さんが何処の世界にいると言うのか?
驚愕である。
でも、アマチュアの分際で何を言うか?と学者様に言われれば、我々には権威無し。
なら、学説的に文字がある事を証明してみよう。
文字の証明=朝廷役人の文具の証明をすれば良い。
この文具は基本三点set。硯と刀子と砥石。硯は当然墨を摺る。刀子,砥石は?この時代、紙は貴重で役人は木を削り出し「木簡」に記入していた。その三点有らばそこには文字を操る朝廷の役人が居た事になる。
結論から言えば硯はまだ見つかっていないが概ねの説。が、刀子と砥石は7~8世紀位の江別,恵庭の古墳群らで出土されている。

さて、同時期の秋田はまだ、秋田城築城前でこの時期の遺跡は殆ど無い。
ほぼ唯一と言われるのが、大清水台Ⅱ遺跡。
日本書記らに720年に朝廷の命で渡島津軽津司の諸鞍男ら六人が大陸の靺鞨国へ渡る記載があるが、大清水台Ⅱ遺跡はこの津司に連なる役人の居住地であると考えられている。
理由は、同一床面より刀子と砥石を発掘出来た事…(注-1)
この時代、鉄器は非常に貴重な戦略物資である事は、後に秋田城の鍛冶工房が外柵内に設けられた事で想像に易しく、誰でも持てる訳ではない。
さて、では同時期の江別,恵庭は?
これは、発掘した本人達の論文を確認すればハッキリ記載がある。…(注-2)
古墳の副葬として、刀子,砥石は蕨手刀や槍カンナらと整然と並べられ同一墓内から出土している。
この2つの同時期の発掘結果を同じ見解で読み解けば、そこには朝廷の役職を持つ者が居ると判断可能になる。
恵庭の古墳からはこれと同じ墓内で青銅のバックルが見つかっており、官位は低い成りに朝廷役人が居た事を示唆させる。

如何だろうか?
我々はこの様な論文は見た事が無い。

文字に感してはまだまだ追跡中。
が、こういう例なら…
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寺社の経文等含め、文字が消されていると言わざる終えない。

参考文献

注-1
秋大史学 第43号 「大清水台Ⅱ遺跡の試掘調査について」渡部育子/船木義勝 1997

注-2
考古学雑誌 第二十四巻第二号 「胆振千歳郡恵庭村の遺跡について」 後藤寿一/曽根原武保 昭和九年四月二十日