元慶の乱…ぶちギレた秋田県民と北海道の選択

元慶の乱…ご存知でしょうか?
また伊藤武士著作「秋田城跡」を元に紐解いてみましょう。
日本三代実録」の記載と合わせると、平安期の元慶2年(878年)2月に、前年凶作と北方との交易拡大と出羽國軍制の弱体化を見越し、秋田城下の12村が計画的に蜂起、秋田城や群衙(役所)をほぼ焼き尽くした反乱。
この火災は秋田城の発掘や郡衙所在とされる石崎遺跡の発掘でほぼ史実通りと特定されている。
四月には政府軍は、要衝能代営救援に失敗の大敗。
5月には政府軍援軍が集結していた秋田城へ、反乱軍が雄物川からの上陸作戦を敢行し、大量の軍事物資を奪い取られる大失態。
どう見ても、政府軍は歩が悪い。
対応した出羽権守藤原保則陸奥から増援された鎮守将軍小野春風が取った手段は「夷の事は夷で」。7月に秋田で政府軍についた人々で軍再編で反撃開始、8月には津軽,渡島からの援軍到着により乱は収束へ向かう。
翌年にかけて、反乱軍の降伏や援軍に駆け付けた津軽,渡島衆の帰順が相次ぎ、追討も検討したがやらず…
実は、この元慶の乱収束には謎がある。
収束にあたり、備蓄米の放出や直後からの遺跡状況見るに、須恵器と製鉄と言う最先端技術を民間放出し俘囚に解放している事。
直後から秋田では海外沿いへ広がり、米代,雄物,子吉の三河川に沿い一気に工房跡が広がる結果になる。当然、津軽へもそれは及ぶ。これが秋田城廃城の一因であり、地方豪族の台頭を許す結果を生む。

さて、サラリと書いたが、北海道はここで一つの選択を行っている。
軍勢としては、全く部の悪い政府軍に援軍を出している事。
つまり、後に帰順の意を表す最高のカードを持った事になる。
この時点で既に律令制に組み込まれる事を選択していると言う事だ。
古代より北海道は独立していた論はあるが、元慶の乱から紐解けば、選択し律令制に組み込まれる選択をしたと言える。
現に、後に台頭した出羽の清原氏陸奥安倍氏、それらを束ねた奥州藤原氏と北海道と東北の蜜月は続き、遺跡から固有とされる擦文土器は消えていく。
つまり、わざわざ質の悪い土器なぞ作らなくても、帰順した政府や豪族達から与えられればよくなった…とは、言えませんか?

擦文文化を持った人々の末裔や後の担い手を名乗るなら、少なくともこの「自ら選択した」事実は受け入れるべきでしょう。
援軍に向かわず様子見するか?
反乱軍に援軍して、反乱軍と共に独立を勝ち取る事も出来たのだから。
時代背景として、擦文文化を持った人々こそ、渡島から秋田城へ出向き援軍した人々です。

因みに、ハッキリこう書いた論文を見た事は無いが…矛盾は有りますか?
我々グループで検討した中では、この解釈が最も矛盾が少ないし、後のミッシングリンクが無くなるんですが。

参考文献
「日本の遺跡」12 秋田城跡 伊藤武
(株)同成社 2006年7月10日