幻の城柵「払田柵」…羊蹄柵が有り得る根拠

北海道史において、朝廷に関わる施設は最低古書で二度登場する。
一つは、阿倍比羅夫が北進し「後方羊蹄」に役所の設置を指示する節。
もう一つは、「渡島津軽津司」の存在。何らか津(港)を維持したり船の補修をする施設は必要になる。
が、まだ痕跡さえ見つかってはおらず、謎のまま。

秋田県史における謎はそれとは真逆。
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幻の城柵「払田柵」の存在。
実は史跡として払田柵と言う名前はあるが、仮称であって名前が解らないし、未だに何か解っていない。
調査事務所発行の「払田柵跡だより」によれば、総延長3.6kmの外柵、1.8kmに及ぶ外郭、板塀で囲まれコの字配置された政庁を持ち、巨大な掘立倉庫と鍛冶工房を併設、数多の土器,漆紙文書を出土しているが…この城柵は古書に全く記されていない。
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当初は「雄勝城」説もあったが、柱の年代特定により、雄勝城より後世に築かれた物と判明。現状、更に南で雄勝城の特定の為の試掘が進んでいる。

全く古書に記されぬ城柵があるのに、何故古書に記載が有る施設は無いと言えるのか?
甚だ疑問である。
幻の城柵が、外柵からの規模では、陸奥国多賀城を凌ぐのに。
なら、広大な北海道を統治しようと思うなら、古書にある施設程度ならあっても不合理ではない…これが最大の根拠。これ以上の根拠が必要なのか?

現在、払田柵跡は指定遺跡となり、再現された南門の真向かいに、調査事務所と埋蔵文化財センターが併設され、常設展示で歴史の勉強が可能。
常設展示をSNS発信時、最も反響大きかったのが、大館の「片貝家ノ下遺跡」。
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これは915年の十和田火山の噴火での泥流が、低地を飲み込み民家ごとそれに埋もれた遺跡。写真の通り、当時の屋根付きの竪穴住居そのものが竈まで含めて保存された例。
ただ亡骸等なく、現状は住民は全て避難し、後近隣に新たなムラを作ったと考えられている。
北海道からこの竪穴住居の問い合わせは受けた事があると仰っていた。故に昨今の竪穴住居の再現等は、この発掘結果が反映されているハズである。

払田柵跡と埋蔵文化財センター訪問時の報告より…いかがだろうか?
記載あるのに「無い」とする根拠は?
いや、記載無いのに「有る」物もある。無いと断定出来る方がおかしい。
これさえ見つければ、古代の北海道と朝廷の関係の扉が一気に開かれる。

探しませんか?
幻の「後方羊蹄柵」…
これ程夢のある話も無い。


参考文献

「払田柵跡だより」秋田県教育庁払田柵跡調査事務所 平成26年3月31日

「片貝家ノ下遺跡」秋田県埋蔵文化財センター 平成28年11月13日