片倉小十郎と北海道の関係…伊達正宗と松前慶広の約束と諏訪大社の影

以前、メンバーの一人が、「北海道入植した伊達家は、幕末まで北海道と一切の関係が無かった」こんな趣旨の話を聞き出していた。
我々としては、後藤寿庵ら伊達のキリシタンと北海道の関係から考えて、そんな馬鹿な話は無いと考えていた。
宮城へのフィールドワークに合わせ、前後に予習復習…
いやー…北海道と伊達家って繋がりがブッ太いのだ。
では…

片倉小十郎を知っているだろうか?
歴史好きでなくとも、独眼竜伊達正宗の片腕として手腕を振るった人物として名高いので、知っている方は多いかと。
実は、片倉家は伊達家一党扱いの武将ではない。が、それ以上に重用されると言う実力の持ち主。現に仙台藩南端に位置する「白石城城主」として代々南の抑えを担っている。
本来、これ有り得ない重用。

さて、実は「片腕小十郎」は独りではない。
この辺は白石城や併設の歴史探訪ミュージアムでも勉強可能。
正宗の片腕、片倉小十郎景綱を始祖として、代々当主が片倉小十郎○○と名乗っている、謂わば当主の証なのだ。 
中でも…
政宗の片腕だった初代景綱公…
武勇伝より鬼と言われた二代重長公…
伊達騒動の一つを手腕で乗り切り、伊達家取潰しのピンチを救った三代景長公…
この三方は三大小十郎と言われ、キレ者揃いである。

北海道との関係は?問題はここ。
なんと白石城にもその展示は無かった。
じゃ説明…
伊達正宗と松前慶広は、約束を交わしている。
それは、松前慶広の子孫を伊達家に養子として差し出す事。要は政略婚姻と言える。
松前慶広はその子安広を、伊達正宗の元に送り出している。

さて、二代片倉小十郎である重長公は、大阪の陣での武勇で鬼と言われるが、物凄く温情厚い方で、敵将真田信繁公より子供を託される位の熱い人物。
だが、残念ながら嫡子に恵まれず、娘に婿を取り、片倉家を継がせた。
この婿が、第一次伊達騒動を静めた三代片倉小十郎である景長公…
この人物こそ、先に述べた伊達へ送られた松前安広の長男。つまり、松前慶広の孫に当たる。

片倉氏は三代目以降、父系は松前慶広からの直系に変わった訳です。
故に十二代邦憲氏は胆振幌別の開拓で、故郷帰還を果たした事になる。家臣団は札幌白石区の開拓を…
後、御当主は白石へ戻った後に、現在は青葉神社宮司をされている。
伊達松前氏の一系統は片倉氏となり、白石城主や国家老として手腕を奮っていた…
何故かこの視点で語られないのかの不思議…。まぁ白石にとっては、出自どうあれ、片倉の殿様には変わりませんが。

北海道と伊達は幕末迄縁が無い…そんなもんは大嘘。
伊達松前氏も重臣片倉氏にも、その血統が受け継がれている事を、伊達家の人間が知らぬハズなし。
こう知れば、北海道の方々も、白石城の見え方が変わるのでは?

問題はそれだけでは無い。
現在の片倉家の御当主が青葉神社宮司
これ、偶然ではない。
片倉家は元々は、神職の家系との事…それも諏訪大社系からの血統。
ここで思い出して欲しい。
室町期の北海道を記した古書は少ない。
有名なのは諏訪大社の謂われを記した「諏訪大明神画詞」…
つまり、片倉家の方々はそれらを勉強している訳で。
白石藩城主片倉小十郎邦憲が幌別へ入植、片倉氏の総守護神刈田嶺神社の御祭神である日本武尊の御分霊を奉じて合祀したのは、刈田神社…
刈田神社の起源はハッキリしないが、平安末に遡るとされる。
仮に、鎌倉~室町の北海道の状況を諏訪大社へ報告したのが刈田神社(その前身)なら?
片倉家の人々は刈田神社(その前身)を知っていた上で、日本武尊を合祀した事になりはしないかと…まぁこの辺は、仮説だが。

松前氏、伊達氏…
そして、片倉氏を経由し諏訪大社へ…
どうでしょう?
北海道と東北の人脈は繋がっている。
太く太く…

そういえば、松前の以前の殿様である安東氏は、時衆で山王権現を信仰でしたっけ?
比叡山修験道ですな…
この辺はまた今後にでも…(笑)