金ヶ崎町と北海道の以外な関係…犬も歩けば棒に当たる

このグループの原点は「フィールドワーク」をして、一時資料を見る事。
その中から北海道史と関係ある点を片っ端から抽出し並べて行く。
そして、関係の深堀をしていく…
中には、予期せぬ場所での繋がりに突然ぶち当たる事が出る。
そんな事例。

筆者はこんな活動をするかなり以前に、たまたまふらっと「江釣子古墳群」を見て資料館で、岩手のエミシと北海道の関係に触れた記憶があった。
そんな理由で、北上方面へフィールドワークに訪れる事があった。
限られた時間と費用で回るのだから、一度フィールドワークに出れば近辺数ヶ所を回る事にしている。事によっては行き当たりばったりに。

と、言う訳で、奥州市から金ヶ崎町へ…
金ヶ崎要害歴史館へ訪問した。
ここは江戸期、金ヶ崎要害が置かれた城下町が保存されている。
おっと、正確には城下町ではない。江戸幕府は一藩一城。故に、藩境紛争した南部藩境付近の砦を「要害」としたので、要害下町か…
むしろ交通の要衝なので、街道宿場町として発達し、要害として宿場としての展示が主になる。

さて、この地は、伊達正宗公の命で桑折氏,留守氏の後、大町氏が藩境決定から明治二年迄治めていた。
明興館と言う藩校を設け漢文や和算を教え、剣,槍術、水連、弓や鉄砲の鍛練を教えたと。これポイント①
伊達藩は、米で禄を出すのではなく、直接領地を与える「知行地制」だった。故に武家も屋敷で畑を作る等、一定の生活力が求められた。ここポイント②。

さて、南部藩と伊達藩の藩境は幕府介入の元、1641年決定。それまで大きな紛争は5回あったとのパネル説明。なんと前後に、金山発見と。学芸員さんに金山利権の取り合いの側面をたずねると、勿論それは有るであろうと。
あれ?伊達正宗公は、南東北の雄…何故わざわざ仙台へ入る事を家康に志願したのか?と疑問が沸く…正宗は金山らが眠っている事を知っていたのか?と…

と言う事で、この地と北海道との関係へ。
維新後のこの武家衆がどうなったか、二つのポイントを学芸員さんが説明しだしたので、「北海道に渡ったんでしょ?」とかましてみた。学芸員は驚きながら「そうです(笑)」答えてくれた。その生活力と鉄砲鍛治らから、伊達市に移住した方々の一部だそうで。
この逞しさが、新天地に向かう原動力だと。

ついでに…パネル展示の中には、正宗公と二代忠宗公は鷹狩が大好きで、周辺の狩場によく来ていた事も示されていた。忠宗公に至っては2週間入り浸る記録があるそうだ。
鷹狩…気になるキーワード…

さて、金ヶ崎要害歴史館には、二度訪れている。二度目は、大籠に潜伏キリシタンを探すフィールドワークの戻り。

改めて、前回撮り損ねたし損ねた武家屋敷のジオラマを撮しに。このジオラマのお陰で、東北に残される知行地の武家屋敷の痕跡が一発で解る様になったので感謝…
何せ、幕府に内密に鉄砲鍛治を続けた場所故に。
さて、大籠からの戻り故、学芸員さん(前回と違う方)にズバリ質問をぶつけた。
この地に「隠れキリシタンの痕跡は?」
答えは金ヶ崎ではご存知では無いみたい。
その変わりに、隣町水沢のマリア観音と、金ヶ崎から西に五キロ内陸部入ると、かの後藤寿庵の収めた地だとの説明を。
ここで気付く。条件揃っていても、隠れキリシタンと言う視点を持たねば、わざわざ調べたり、見つけるはずも無し。
割と専門家達の視野は狭いのだ。隣町がそんな場所であろうとも。

一応…
筆者は、伊達藩の全てがキリシタンだとは考えてはいない。
が、正宗公が鉱山開発らで、キリシタンを含めて利用しようとしたのは、他の諸大名の動向を見れば明らかだろう。
そして、そんな人々が「後藤寿庵」をキーマンとした「キリシタンネットワーク」により、江戸初期に北海道へ渡ったのもまた事実だろう。
犬も歩けば棒に当たる程、北海道と東北の関係は深い…