ゴールドラッシュとキリシタン-4…「後藤寿庵」と言う武将

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/17/190920

と言う訳で、第三段階…
後藤寿庵」と言う武将をご存知だろうか?
後藤寿庵顕彰会さんのHP等で、先に勉強させて頂いていた。顕彰会さんのHPはこちら。
https://john-goto.org/john/

正解な出自は不明。
伊達政宗公に士官し、大坂の陣では鉄砲隊隊長。所謂支倉欧州使節団準備の実質リーダー。
見分村(現岩手県奥州市水沢区福原)を知行。胆沢平野に灌漑堰を築き周辺を荒れ地から穀倉に変えた地元の偉人。
この方はキリシタン武将で、幕府の禁教令で、正宗公からの「布教せずバテレン近付けず」の条件を拒否して姿を消し、亡くなった場所も正確には不明。

筆者は、後藤寿庵顕彰会のある「カトリック水沢教会」や「寿庵堰」らをフィールドワークしているので、直後の状況は添付ツイートのスレッドを確認頂きたい。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1234799280583409665?s=19
教会へ訪問時は、書籍の確認や紹介頂いた事、この場で改めて感謝したい。

何故、後藤寿庵に着目していたか?
つか、東北のキリシタンを勉強すると、彼が必ず登場する。
バチカンへの奉答書では、東北の信者17人の筆頭で名を刻む事から、実質的リーダーと考えられるからだ。
実際、アンジェリス神父らに関わる古書でも、全国から東北に訪れたキリシタンは見分村を経由し、南部領へ向かうか?佐竹領へ向かうか?している模様。

フィールドワークへ向かう段階で…
①北海道と東北の関係を調べる
②彼がどんな文化をもたらしたか
③既に余市にある石垣を捉えていたので、キリシタンらが築いた寿庵堰の石垣を見て比較したい
この三点。
①は、はっきりとしては見つけられなかったが、見分村がキーステーションだったと考えられるのは大きい。
②は、寿庵堰の偉業を見れば理解出来る。
実際、胆沢周辺は台地状で胆沢川から水が引けなかったのを、南蛮渡来の技術で可能にし、減税ら含めた政策で地元の尊敬を集めたのも事実。
③もフィールドワークの写真を見ていただければ、その丁寧な石積が目に入る。大きさを揃え積んでいるので美しさ迄感じた。

北海道と東北の関係で見ていくなら…
彼とバテレンらの関係や、既にある程度特定されているアンジェリス,カルバリオ神父らの足跡から北海道内の足跡を辿り痕跡を追えば、そこには北海道内でのキリシタン痕跡は必ずある…と言う事になる。
実際、ネット検索すれば、千軒岳付近には金堀衆による石垣は残されている。
それらと余市や様似の石垣の年代や構築法ら比較を行えば、自ずとキリシタンの仕事なのかも解明していける訳だ。

結局、余市の茂入山の石垣が江戸初期辺りに作られたのではないか?と言う予測は、実際こんな事からしていたんだろう。
だが、全く先の調査がされていないのは何故だ?
そこから追い掛ければ、菅江真澄最上徳内林子平らが描いた北海道の姿の、直前の「東西蝦夷地」の状況がはっきりしてくるのに。
チンパオリの起源と言われる「陣羽織」が世に生まれ…
北前船が木綿をもたらす直前のアットゥシに辿り着き…
孟宗竹が北海道に入る前のムックリの原型が見えるかも知れないのに…何故?

研究者が自由に研究し難い背景でも、あるのではないか?と、我々のディスカッションの中では再三出るのだが。

これら第三段階迄で、江戸初期辺りの東北において、如何にキリシタンの影響があったのかは、解って頂けたと思う。
この繋がりから、追い掛けて行けば北海道での文化インパクトが見えてくるで有ろう事も。

こんな視点は、 断片でしかない。
これと、違う断片を並べてみてなんぼの価値。
まだ、スタートラインに立っただけ。

もう一つ…
後藤寿庵は、完成した寿庵堰やそこに広がる首を垂れる稲穂を見る事が出来なかった様です。
道半ばで、藩からの追手から身を隠す必要があったから。捕縛され殉教に至るよりやるべき仕事があったとしたらば…キリシタンネットワークを完成させる位しか思い当たらない。
寿庵堰を完成させ、そこを豊かな田んぼにしたのは、彼を慕い尊敬していた弟子達と見分村の領民達です。
寿庵堰は、後藤寿庵だけの功績では無い。
意志を継いだ人々、皆の功績だと思う事を付記しておきます。