幕末に増毛,宗谷らは久保田藩…忘れ去られた分割統治

幕末の黒船の動乱…
大体、勉強の記憶にあるのは、各藩警戒に当たった。北海道は東北諸藩がその任についた…程度だろう。
勿論、こんな歴史の勉強をしていなかった我々メンバーもほぼ同じ。
動乱自体に興味持てど、学生時代に細かい事なぞ教わりもしないし、気にも留めない事は多い…自分の地元が関わったとしても。

だが、現在我々は北海道と東北の関係史を拾い出している。
ならばどうだったのか?調べねばなるまい。
と言う訳で、筆者は秋田県史を少し…
だが、さわりを読むだけで頭がクラクラした。


蝦夷地上知以後、幕府は其地方開発をも併せ行う計画をたて~後略」

久保田藩には、日本海西海岸増毛、オホーツク海紋別を両端の境とする北海道本島北端の全領域と、利尻.礼文島の二島が与えられた。」

「江戸にあたつてこの指令を受けた久保田藩主義就は、余程強い感心を寄せたと見え、自ら新領分の視察をするか、それが出来ない場合は家老をして是非実地見分をおこなわせたいと~後略」

「老齢と見られた宇都宮.渋江は老いたりといえども蝦夷地視察の用務位は大丈夫果たせると特に義就に其の差遣方を強願しているが、国元政治が大事であると両人をなだめ~後略」

「前略~家老の派遣視察は実行されなかったが、財用奉行(後勘定奉行)~中略~引続き現地に交替派遣さられ、領分開墾に大いに力を尽くし、又~中略~開墾.警備の任務に当たらしめる等の業績を残している。」

秋田県史第四巻」秋田県編集 昭和52年4月30日発行 より引用

秋田県史から、一節を引用抜粋してみた。
幕末、ほんの僅かだが、増毛付近、道北と利尻.礼文島久保田藩だった。

前述にある「家老の宇都宮」は、久保田藩筆頭家老だった宇都宮孟綱だろう。
彼は「宇都宮孟綱文書」、つまり日記を残しているが、それはもはや史書扱い。
それに記述があり他の史書との整合性がとれているから、江戸期の久保田藩の動きが解る。

××日記と言う本は、図書館にボツボツあるからそんなもんだと思っていたが、久保田藩士は日記を多数残している。宇都宮、渋江、岡本etc…因みに北海道警備に当たった石井忠行と言う藩士も日記を残している。
が、それが少々異常に多い事らしいと、昨今始めて知った。
最近、著者やテレビ等で人気の磯田教授を驚愕させたとか言う筆まめさ…
家老の宇都宮が「俺が行く!」と言ったのも日記からの見解だろう。

それら片っ端から紐解けば、久保田藩下の数年の北海道の状況も見えるハズ。
が、これら膨大な資料を確認するだけの手間が無いのが実状。

さて、どうだろう?
今のところ、北海道系住民と久保田藩の衝突の記載は見つけられていないし、そんな話は古文書のスペシャリスト集団である公文書館で少しだけ雑談で伺った程度では聞いた事が無い。

これでも圧政がーと言えるのか?
あれば誰か藩士の日記に何らかの形で残されると思うが…
県史見る限りでは、むしろ飢饉や動乱の中、やるからにはキチンとやろうぜと言う藩主貴下の意気込みを感じるのは、筆者が秋田の者だからだろうか?

実際、秋田県公文書館絵図検索データベースでは、「宗谷出張陣屋略絵図」 ら、複数の北海道の絵図が「公文書」として保管、公開されている。
ロシアの黒船含めた警護で、東北諸藩はそれぞれの担当を命懸けで働いていた。
黒船は、欧州の大砲を積んだ軍艦なのだ。
その戦力差は、幕府以下諸藩も知っている。砲撃一撃で御陀仏…砲撃事件はあったのだし。
それに火縄銃と日本刀で立ち向かった事になる…話し合い命懸けだったのだ。

派手なトラブルの記録もなく、むしろあるのは話し合いによる米と産物との交換レートの設定ら、政についての記録。
警備の仕事はガチの命懸け…

圧政がー、弾圧がー…
それ、何処にある?
明治政府がー…
残念ながらこれは幕末の話。既にこうして東北諸藩が政治を行っていた。
何の不満があるのだ?

現在、これ等は秋田県の「公文書」として保管される。
「公儀御用」つまり当時の「日本の政府直接指令」に対する報告に類する記録も含まれる。
当然各藩共に、それら文書は残されているであろう。
何故、政治家がこれら「公文書」をろくに調べずあんな宣言をしたのか?
我々には皆目理解不能
まぁ、ご先祖達の命懸けの苦労を思い図れば一言。
「胸襟開き話し合い、命張って守って、何の不満がある?ふざけるな!」と言いたいが。
まぁこの一言は、東北諸藩が分割統治した短期間の事。 それ以前の話は他藩が関知出来る事では無い。

幕末の記録は、東北諸藩が持っている。
知らばっくれてもムダ。
そんな視点から追いかければ、江戸期の状況も見えるのでは?
そんな研究、見た事ないけど…


参考文献…

秋田県史第四巻」秋田県編集 昭和52年4月30日発行 より引用