「井戸」に連なる物…もう一つ探していた物

我々が北海道に於いて、「文字」の他にも探している物は幾つかある。

話は飛ぶが、縄文遺跡が「そこにある理由」をご存知だろうか?
これは実際のところ、縄文期だけの話ではないのだが…
学芸員や研究者にたずねれば、こう答える。

①日当たりが良くて暖かく、風をしのげる事…
これは当然、体感温度らに関わる。
②川や湿地帯から離れた高台…
これは、湿気やそれに纏わる生物から身を守るに関わる。
③飲み水が確実に確保出来る事…
これが無いと、生きていけない。

この三点。
この条件は、現代に通じる。
縄文人は、割とハイソな条件の住宅地を狙って作ったと言える。

基本、狩場等の兼ね合いで、川から離れたりはしないし、弥生の水田を作る条件では湿地が必要。
だが、居住区はあくまでハイソなのだ。
由利本荘市の「本荘郷土資料館」の菖蒲崎貝塚の展示なんかでも、居住区と仕事場は分けて考えていた事を示唆させている。
住む所と仕事場は、縄文期から別々なのだ。

で、問題の③…
東北の遺跡では、奈良,平安期には「井戸」が存在する。
居住区には「井戸」があり、仕事場の川の水は飲むものではなく、利用するもの。
コロナウイルスで騒がれる今なら、理解可能だろう。「衛生面」を考えたら、汚染の危険性あり雨が降れば濁る川の水を飲むより、湧水を利用した泉やその周辺の水脈を利用した「井戸」を掘るのがよりベターだ。

が、北海道のメンバーは、「井戸」跡を見ていないと言う。
こちらでは、城柵のみならず、ムラの形跡ある所では展示の説明があるのに…
それを探していた。
小川ではなく、泉や「井戸」。
秋田城なんかだと、あからさまに水を浄め、それが枯れぬ様に祈祷の痕跡まであるのに。


その片鱗をやっと見つけた…それも論文な中に。
そこは、「江別」…
泉があり、それを利用した事を考えていた論文、なんと江別古墳群一連の発掘時の報告にある。

論文の一部要約。
1号竪穴住居…
町村農場丘上の一つ。竪穴は数ヶ所あり、丘陵南東端。「この南東端には、今尚清水の涼々と湧き出づるありて、往時の一大冷泉を思わしむる」…
これを、大遺跡が出来た理由に挙げている。

更に、3号竪穴住居跡…
ここは江別町の野幌…
穴(竪穴住居跡の事)の四隅近く圓い柱穴があり、この穴はいずれも空になり底には水が貯まっていると(但し穴径15~20cm、深さ30~60cm)。用途不明。
この居住区も、水脈近くに遺跡を作った故に、柱跡に水が貯まるんだろう。

さすがに「井戸」を存在を伺わせる記載こそ無いが、飲み水を近くに流れる江別川に依存していなかった事を示唆している。
始めから、飲み水らを意識して、ここに居住区を作った可能性は高い。

拘りを持っていたのはこの点だ。
縄文人にとって、当然の事…
東北でも、当然の事…
が、北海道では、それがハッキリしない…
これは何故?
近代において、アイヌ文化を持つ人々は川の水を使っていたとか…
明治で、疫病対策の為に、井戸水使用を推奨したとかなんとか…
命の根幹に関わる「生活用水」に対する思想の違いがあるなら、それは文化が違う事になる。
江別に住んでいた擦文文化を持つ人々は、少なくとも違う思想を持っていた事になると思うのだが。
泉は、居住区の規模拡大や都市化や定住化が進めば、「井戸」に直結出来る。
それを無視出来ない。

さて、この論文を書いたのは、「後藤寿一」博士。江別や恵庭の古墳群らを直接発掘した一人。この時も河野廣道博士らと共同で発掘している。
江別古墳群の発掘調査第二報とあり、昭和六年の「蝦夷往来」に寄稿した第一報に続くもの。

何故、こんな古い論文を確認するのか?
そこには、発掘当時の研究者が見たままの姿が記載されている。
後の教え子や弟子達が書いた論文の様に、一部が抜粋されたりフィルターが掛かったりしない、古墳内の状況や周辺の状況が克明に記される。
後の教え子達が、生活用水に疑問を感じ着眼しなければ、こんな泉の存在を引用したりはしない。故に見付けられなくなる。
発掘調査時の一次資料を確認する理由はそこだ。

我々はフィールドワークを旨とする。
そこに有るもの、有るハズなのに無いものに着眼し、調べて事実だけを並べていく手法。
見たままが大事なのだ。その場の空気や景色の共有こそ命。

上記から導き出せる事は…
江別古墳群に眠り、ここに暮らしていた擦文文化を持つ人々は…
生活用水への思想だけ鑑みれば…
近世近代の北海道系住民より、同時代の東北や都に住む人々に近い考え方を持っていた「可能性」が高いと言う事。
勿論、それはより古い時代の縄文のの人々にも連なると言う事だ。

今後も「井戸」探しの旅は続く。
どうやって命を繋いできたか?の根幹だからだ。
古代からそれを重ねて行けば良いのだ。
それが突然変化する時があれば、そこが文化の変化した「壁」となる。
先祖達が何らかの選択肢を迫られた時になる。


参考文献
考古学雑誌第二五巻第二号 「石狩国江別町の竪穴住居跡について」後藤寿一 昭和十年二月