欠けているランドパワーの要「馬」…蕨手刀と日本刀、そして阿弖流為の関係

全く違う話が、その時代背景を重ね合わせるとガッチリ腑に落ちる事…無いだろうか?
ランドパワーの要たる「馬」、そして武器たる「刀」の話です。


下の写真は、筆者が「大籠」に向かう途中に、たまたま道端で見かけた刀剣の里についてのパネル。
f:id:tekkenoyaji:20200603075210j:plain
現状考えられている日本刀の起源の一つは、
・蕨手刀…
・毛抜型蕨手刀…(柄に透かし穴付く)
・毛抜型刀「舞草刀」…(蕨手の装飾が消える)
と、変遷していき、これを西国の刀工達が刀身を伸ばして、毛抜太刀へ発展させ、日本刀へ至ると言うもの。
パネルがある地域こそ「舞草刀」を作った舞草(もくさ)鍛治の里だった。
そう…岩手なのです。
勿論、これらが清原,安倍氏奥州藤原氏の武力の源だが…敢えてここは遡る。

舞草刀成立は9世紀後半、毛抜型蕨手刀で9世紀初めと言われる…
これを、歴史的事情と重ねると?
阿弖流為降伏による38年戦争の終結が、正に9世紀頭…つまり蕨手刀の改造は、38戦争に伴う物になる。

ちょっとエミシの38年戦争を覗いてみる。
奥州市埋蔵文化財センター前所長 伊藤博幸氏が所報「鎮守府胆沢城」として出した物の抜粋を、シリーズ「阿弖流為」としてコピーして貰える。そこから…

既に多賀城があり、エミシ社会では地域首長を軸にした同盟を結んでたりしていたと思われる。この段階では、朝廷へエミシの協力は問題無かった。
だが、朝廷のそれぞれの部族へ対する扱いの違いに疑問を持ち始める長が出て来て、774年に蜂起、朝廷側&協力エミシvs非協力勢力の争いに。討伐軍の将軍まで殺害を…

788年、胆沢へ絞り第一次討伐軍派遣、約5万。北上川の東岸,西岸に軍を分け北上。先方の精鋭約2千づつ巣伏村で合流予定…
その村こそ、阿弖流為の拠点だった。
エミシ部族では戦士団が既にあり、連合軍を作っていた。
阿弖流為は陽動作戦とゲリラ戦を展開し、朝廷精鋭部隊を撃破…
史上で言う「胆沢合戦」となる。この辺が阿弖流為伝説として続日本記に記載されている。
結果朝廷軍5万を撃退。

そこで更なる大規模討伐軍を編成…
794年に第二次蝦夷征伐、約10万。この時、副将軍で参加したのが坂上田村麻呂
半年後の報告では、斬首450,捕虜150,馬捕獲85(国家年間貢上数105)…
水沢市の2地区の遺跡の面積80%が焼失痕を残すという大戦果、それでも胆沢を落とすに至らず。

間髪入れず、801年に第三次討伐軍…
坂上田村麻呂はこの時征夷大将軍となる。但しこの遠征には詳しい経過が史書に記載なく「夷賊討伐」のみ。
実際、更に北の久慈辺りまで派兵出来ているので、ほぼ制圧完了…
が、まだ阿弖流為は倒せては居ない。事実上第二次討伐で、かなりのダメージを受けていたが…

802年、再び坂上田村麻呂は胆沢城築城の為胆沢へ…
造営中の巨大城柵を見、万策尽きた阿弖流為は5百の兵を従え投降、ここに38年戦争終結
田村麻呂は都へ阿弖流為らを送る際、助命嘆願し阿弖流為に協力させようとしたが、公家らは、その力を恐れ斬刑に。
此処までがエミシ部族の長の一人である、阿弖流為の話。


ここで注目すべきだと思った事。
①この段階で、朝廷は既にエミシの協力を得ている。古墳の副葬がそうである様に。
②38年戦争開始時には、朝廷勢力内のエミシ同士の派閥争いの様相がある。
阿弖流為は連合軍を率いていた。
更に陽動とゲリラ戦…組織だって動けた事になる。指揮能力もあった。
④本文指摘の通り、第二次討伐での馬の鹵獲数が凄い。確かに馬の産地はあるが…
騎馬隊の様な使い方が出来たんだろう。
阿弖流為は、胆沢城築城中に投降している。それなりに邪魔はしただろうが失敗しただろう。その規模を見て決断した…戦略,戦術的に判断出来る人だった。
以上の様に、阿弖流為にはインテリジェンスを感じる訳だ。

このポイントから…
何故、エミシが片刃の蕨手刀を必要としたか?
何故、日本刀が湾曲し斬撃特化したか?
あのパネルを見ると、何となく理解出来るだろう。


騎馬部隊の存在…
阿弖流為が、何故一次蝦夷征伐で朝廷軍を蹴散らせたか?圧倒的な騎馬戦力が有ったからではないかと。それは馬の捕獲数で裏付け可能。
阿弖流為の乱により、騎馬部隊による斬撃の有効性が立証されたとしたら?
一気にその方向で戦略物資たる、太刀の構造や馬の確保の見直しもやるだろう。
やらねば、律令制の完成は無いのだから。
蕨手刀の能力を最大限に引き出すのは、騎乗で片手で振り回せる手軽さと、片刃で柄が刀身に対し湾曲する「斬撃性」だった。
それを極限迄高めたのが…日本刀。
そんな背景を持つ。


だが、その蕨手刀をガッツリ出土している割に、北海道では、ランドパワーの要「馬」近世迄居ないと言う話まである…
古代に北海道派遣された先陣は岩手のエミシだろうと考えられている(まだ秋田城は無い)。
その武器が真の能力を発揮し、更には大地駆け回り未開の地を開拓するには持ってこいの「馬」の存在を知っているハズであろうエミシが行っていたであろうのに…
疑問を持たないか?

ならば、函館図書館に行ってみよう!
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/0120205100/0120205100200010/be001121/
これは、「安政南部藩御持場東蝦夷地風物図絵」。
箱書きには「南部藩士長沢盛至真模写」とあり、安政二年頃、実際に測量で室蘭付近に居た方だそうだ。
あれれ?
江戸期に馬に乗り、弓矢や鉄砲を撃ってる御仁が居る…これ、だぁれ?
更には、時代は降るであろうが「西川北洋」が描いた「アィヌ風俗絵巻」なる物も…
ここでも馬は乗りこなされている。
どちらの絵図にしても、昨日今日に乗馬を始めた様には見えないが?
擦文遺跡での馬具出土はあったハズだが、検索にヒットし難くなってるのは何故?


さぁ…
ランドパワーの視点でも、矛盾は存在する。
中世武具の存在も謎ではあるが…
馬具が無いのもまた、謎なのである。
継続探索中…