「余市」と「脇本城」との関係…貿易陶磁器から見える武将の存在

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関連する項は、この辺になるだろうか…
歴史の断片を組み立てていこう。

下記は、平成15,16年開催の東北中世考古学会の講演,報告資料を編集した「海と城の中世 東北中世考古学会叢書4」と言う著書の一部。
元々の記事は、秋田の「脇本城」を中心としたパネルディスカッションで、脇本城と山形,広くは東北の中世城舘遺物と、15~16世紀の貿易陶磁器の傾向の関係を報告している。
その中に、一部北海道が登場している。
では、見てみよう。


「第1図は脇本城の遺物組成をなす貿易陶磁器が東北一円にどの程度分布するのかを探ったものであるが、~中略~貿易陶磁器の組成をほぼ満たす遺跡(玉壺春瓶は除く)数は、実は少ない。」

「これら遺跡の多くは、地域の中心的な中世遺跡、あるいは中世城舘として知られている遺跡である。」

「これらを「威信財」と見て、領主権力の様相が遺物に反映しているものとしている」

「さらには北海道上ノ国町「勝山舘」、余市町「大川遺跡」においても、共通する遺物組成を見いだすことができ、こうした組成はさらにより北方にも展開する。この傾向性は、脇本城の領主が北方に勢力を有した安藤氏であると考えられることと無縁ではあるまい。」

「また、類似する遺物組成が広域に見いだせるという現象は、この時期、貿易陶磁器の潤沢な供給量が保証されていること、円滑な流通が保証されていることを示している。」

「海と城の中世 東北中世考古学叢書4」東北中世考古学会 編集 2005年 10月10日 脇本城と出羽南部の海と城 山口博之 より引用。


報告者である山口博之氏は、当時、山形県埋蔵文化財センターの方。
貿易陶磁器の傾向は東北の場合、時代変遷で概略三期に分かれる。

Ⅰ期…
12世紀中心とした時期、当然これは奥州藤原時代になるだろう。
Ⅱ期…
13~14世紀中心とした時期、鎌倉幕府により藤原氏勢力解体や南北朝の時期に当たる。
Ⅲ期…
15~16世紀中心の時期、ここが脇本城との関連が考えられる時期。十三湊安東氏の隆盛と断絶、そして檜山安東氏台頭の時期と重なる。
上記の組成傾向は、脇本城との関連を見ているので、Ⅲ期の傾向と言える。
山口氏の指摘では、ほぼ同様の組成を示す遺跡として、青森の「浪岡城」、山形の「藤嶋城」、福島の「若松城三の丸跡」ら15箇所を上げ、地域の中心的城舘であるとしている。
それと、「勝山舘」「大川遺跡」が合致すると言うのだ。
貿易陶磁器は「威信財」。何らかの威光を示す人々の存在を示唆させると言う訳だ。
「勝山舘」は言うまでもなく、蠣崎氏の居城。なら、「大川遺跡」は…?

当然、この組成傾向は「安東氏」と同盟関係にあるか?若しくは「安東氏」貴下の武将になる。この時期の蠣崎氏…つまり勝山舘は、安東舜季の調停ら含め「安東氏」貴下と言える。
なら、余市は?
残念ながら、蠣崎氏貴下とはならない。
新羅之記録」によれば、夷狄商船往来法度で、西蝦夷地を抑えていたのは「ハシタイン」なのだから。
時代柄ではピタリ合致する。
ならば、その「ハシタイン」は…何者なのだ?と、言う事だ。

実はここまで研究は進んでいる。
が、北海道中世の研究はどうだ?関連性を指摘されているが、それから掘り下げる作業は?…無いだろう。

故に筆者は問いたい。
北海道が安東氏と強い関連性を持つでは…不満なのか?と。

北海道と東北の関係は深い。
それは中世でも途切れてはいない。



関連書籍

「海と城の中世 東北中世考古学叢書4」東北中世考古学会 編集 2005年 10月10日 脇本城と出羽南部の海と城 山口博之