既成概念は「ぶっ壊せ!」…我々が物証主義である理由

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/151154
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/02/065746
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/225305
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/12/103223

関連項はこの辺になるだろうか…
下記はSNS上の会話の一端である。

https://twitter.com/gurinhiguma/status/1275748300751134726?s=19
https://twitter.com/gurinhiguma/status/1276094924786548737?s=19

洞爺村にはアイヌ文化の痕跡が無い
→だが、アイヌ語由来地名がある
→目で見えるものがなくても生活圏であった事は「まちがいない」

物証無くして「まちがいない」ですと?(驚愕)
上記は「洞爺村史」の一部だという。

これに対し、ある方は…
調査隊に同行したアイヌが、調査隊と共にその場で名付けた視点が欠落していると。
同意である。
その方が仰る様に地図や文字と言う記録媒体に残している訳ではない。
どう「証明」するのだ?

筆者は意地悪なので、もっと突っ込む…
一部言語系学者は、東北の「ナイ」等地名により、東北にアイヌの「ムラ」があった様な話をしてるのだから、これを逆手にとれば…
「近辺に東北との関連性ある遺物あるなら、そこにはアイヌ以前に東北人が先住していた、後にアイヌが居住する様になる。遺物と地名が合致するのはその証である。」…こんな仮説を立てる事も可能だろうと考えるが。
勿論、そんな野暮な事を他地域の人間がしても何の意味のない事ので、大声でいう気も無いが。
何故村史のあの部分を書いた方が、そんな全く違う仮説すら成り立つであろう事に気付かないのか?甚だ疑問。

我々はそれ故に、「物証」を捜し回る。
現物、現物の写真、発掘時点の論文ら、本当の一次資料を。
あまり、著書を読まず、読んでも「事実の抽出」のみにしている。
思い込みや既成概念を排除せねば、真実に到達なぞ出来ないだろう。
上記の「ちがいない」は極端な例かも知れないが、それに近い事なら、ド素人視点で幾らでも見つけられる。「貴方らは、歴史をプロバガンダの道具にしたいのですか?」と問いたい程に。


我々は、プロバガンダには組しない。
「物証」主義遵守…
「解らない」事は解らない…
「仮説」を立てるにもまず状況証拠…
当然の事を当然の様に貫く。
如何にそれでハードルが上がろうとも「物証」に至れば、我々の主張を覆す事は出来ない…と、言う事だ。