ルーツの一つ「亘理」…解らないと言われても我々は知っている

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/08/181748

ここ数日で筆者は、冬に閉館中らで見学出来なかった幾つかの資料館を見る宿題をこなしてきた。
その一つが宮城県「亘理」。
なにしろ、亘理伊達氏の「伊達邦成」公とその直家臣団こそ、北海道伊達市を開拓していった方々。
北海道~東北の関係史と言うなれば、抜く事など出来ない。
亘理町がどんな所かの報告は、下記の通り。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1277367303886172161?s=19

亘理伊達氏は、初代成実公の奮戦らにより、一門内で序列三位(血統でいけば二位)と、家格が高いようで。
実際に亘理に行ってみると、田んぼの中に垣根,母屋,倉が纏まる知行地の武家屋敷の面影をまだ残している。
資料館の展示で少々引っ掛かったのが、「天和の訴願」。
これ、所謂伊達騒動の前後…
この前後の動きを見る限りは、亘理伊達氏は反伊達宗重派に近いスタンスか?
いずれ、伊達の動きも掘り込んでいく。

さて、報告にもあるように、亘理町郷土資料館では、ド直球ではあるが「キリシタン痕跡」の有無をたずねた。
そりゃそうです。水沢,大籠,登米,角田らキリシタン痕跡は旧伊達領には多い。
即答「聞いた事が無い」…
が、筆者は大籠ら墓石に残される痕跡の事例を上げ、「亘理にもあるはず」と言ってみた。
学芸員の方は「存在は知っている」と言う。
さりげなく「後で調べておきます」とのお言葉を頂いたので、町史らを確認した上で質問を投げ掛けてみるつもりである。
拘る理由…?
大籠らの墓石表示の事例とは、墓石の戒名の上に「十字」や「心」を彫り込んでいる事。
曹洞宗の墓石で「○」「空」を彫り込む事例があるが、文字違いの様なもの。
我々は知っている。亘理伊達氏に近い場所に、そんな墓石がある事を…
調査らで、そこに行けば気付くであろう場所にある。
勿論、それで何が変わる訳では無いし、キリシタン墓である確証は無い。
が、その時代に家臣団に「キリシタン」が居たとしたら?
弾圧の最中であれば…ね…
角田を除けば、北海道へ渡った知行地で何故かキリシタン痕跡が無いと言われる。金ヶ崎もそうだ。隣に見付村があるのに。

昨今、テレビでも戦国~江戸初期のキリシタンの番組が放送され始めたが…面白い傾向だと思う。
キリシタンネットワークは軽視され過ぎ。
このやり取りの夜に、その番組を学芸員さんや館員さんが見たとしたら、筆者の質問の意味を知るだろう。

亘理伊達氏の家臣団にキリシタンが居たとしたら…ネットワークの中に居た事になる。
北海道のゴールドラッシュの情報を持っていた可能性もあると言う事。
そして、明治に北海道に渡る…面白い話ではないか?
墓石は嘘はつかない。

まぁこれからジワジワ調べていこうと考えている。