以前から、「鉄器兵器」については、戦略物資として考えているので、それに言及してきた。
では、「戦術」はどうなのか?
ググればパッと出てくる平安期、北海道で言う所の擦文文化期の東北人の戦いの戦術を、考察してみよう。
日本最初の兵法書「闘戦経」が書かれたのが平安末、これが孫子の様に戦略解説より、武士とはどうあるべきか?の様な精神論的な物になっているのも、末法思想全盛期であったから?戦が絶えなかったから?かもしれない。
基本的に戦は、平安~鎌倉期には、大将首を一騎討ちで取るのが美徳。
「潔し」みたいな精神の源流はこの辺からなのだろう。
さて、なら東北は?
①阿弖流為…
第一次蝦夷征伐では、五万と言われる朝廷軍を2~4千位で撃退。
どんな戦術だったのかは、第二次蝦夷征伐で坂上田村麻呂が得た馬の鹵獲数で想像出来る。これがハンパない頭数なのだ。
現状はそれから、陽動作戦と恐らく、日本史上最初に「騎馬軍団を使った電撃戦」やったのではないか?と推定されている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/04/052124
事実、蕨手刀はその後、舞草刀を経て日本刀へ。これは馬上からの斬撃強化の為ではないか?との推定もある。
現在なら戦車と歩兵の闘いの様なものであったかも知れない。
②秋田エミシ…
勿論、元慶の乱。
https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1283682204128706562?s=19
元海上保安官の方が面白い解説をしていた、秋田魁新聞の記事から…
俘囚(エミシ)軍は船で八郎潟を南下、海上から分岐した雄物川河口から遡り、体制整え一気に雄物川を下り、秋田城へ殺到。
秋田城には炎上の痕跡がしっかり残っている。
秋田城側の隙をつき、片っ端から焼いて、混乱に乗じ、武器や食料をパクる。
これ、秋田郡衙らも激しい炎上痕が残るので、大規模焦土戦とも言える。
建造物を焼き尽くせば、話は早いのだ。
吉彦 秀武…
荒川太郎とも言われる。
後三年の役。
元々は清原氏の武将ですが、後三年の役自体清原氏の派閥争いの様相。
彼こそ、後三年の役の発端であり、源氏軍に付いた。
この人物こそ、源氏軍の大将、八幡太郎義家に日本史上最初の「兵糧攻め」を進言した人物。
それも、逃げてきた婦女まで討ち取り、逃げ出す者を封じて兵糧を減らさせると言う事まで進言した模様。
この辺で良いだろう。
東北のエミシ達は、元々都で美徳とされた「美しい合戦」なんぞ気にはしてはおらず、リアリスト揃い。
死ぬか生きるかの瀬戸際なら、絶体勝つやり方を好んだ…鬼畜と呼ばれても。
で、これが平安、北海道なら擦文期での東北人の戦術…
こんな人々が、
鉄器の武装し…
船も騎馬を操り…
長刀や鉄の弓矢を放ち…
集団戦闘可能…
兵力差知れば焼き尽くすのを厭わない…
さて、これで、
骨の毒矢と皮の鎧,…
徒歩行軍しか出来ない…
軍組織していない…
そんな集団と戦闘したらどうなるか?
擦文文化人は、既に鉄器兵器を持っていた。
つまり、北海道で平安期に考えられる「戦」なら、時代考証すればこうなるのだ。
まぁ筆者の先祖は、都人から見れば野蛮且つ合理的な戦いを好んだ集団かと。
実は、昨今のSNSでも、直ぐ、「虐殺」だ「侵略」だ等、血生臭い話が好きな方は多い。
が、戦乱な虐殺の痕跡がある遺跡をまだ…聞いた事が無い。
有らばご教示戴きたいものだ。
歴史を語るのであれば、この現実は考慮して発信すべきと考える。
なら「元」は?そういうだろう。
仮に「元」が北海道迄攻め込めんだならば、それは歴史書に「元」我が国共に、その武勇伝が記されるだろう。
基本的に古書は必ずプロバガンダの一端を持つ。それ…あるの?
更には、「てっぽう」ら火薬の使用らも示唆されるのに、擦文遺跡に炎上痕があるのか?
聞いたことは無い。
仮に人が大量に入った…
これなら、「元」に駆逐された北方の人々を「難民として受け入れた」可能性もあるのでは?
受入後、使役層として使えば良いのだ。
これも仮説として、成り立ちますが、如何であろうか?
前九年の役、1051年勃発…
その時には、既にこの清原氏の居城である大鳥居山柵は存在している。
既にこんな築城能力を持つ者が、擦文文化人のバックには付いていた…この辺をお忘れなく。
鎌倉以降ならまして…
全く平穏な世の中にはなってはいない。
こんな戦闘集団が駆けつけていたら?
この辺が、関連史として全く考慮されていない部分だと思うのだが。
今我々が知る限り…
北海道には共存の歴史しか、見えて来ませんけどね…
戦い方を知るべし。