蝦夷=アイヌではない…根本的な考え方

多分、根本的な考え方の違いがあると思う。
なので、キッパリ書いておく。
我々は、蝦夷=アイヌだとは考えてはいない。

その理由の一つは、各市町村史の見解に基づく。
地方により、「この町は奥州藤原氏の残党と縁」「この村は十三湊安東氏が島渡りして作った」…この様な記載は多い。

縄文の末裔たる「擦文文化を持つ人々」が居て…
それと朝廷が結び…
奥州藤原氏と協力した…
この段階で、アイヌ文化の片鱗はない。
そして中世を迎え、本州由来の武具等…

北海道史にでは、この辺から「アイヌ文化期」と言う事になっていると言う。

ならこの、明確にアイヌ文化開始前に北海道の地を開く為に派遣された人々は、何処に行ったのか?
町や村を切り開いた人々は、何処に居るのか?
その話をする方が殆ど居ない…何故?
遺跡の遺物が、本州由来ばかりになっていくのに…何故?

特異とされる文化ばかりに目がいきがちになっていないか?
その派遣された人々が、アイヌ文化を持ち変化していくのか?

この点…
明らかにこの人々の存在が消されていて、誰もその事に疑問を持たない事の方が、我々にとっては、大いなる疑問なのだ。

我々の視点はこうだ。
蝦夷」は「アイヌ文化を持つ人々を含む」…
勿論これは、渡島半島の事だけではない。
北海道全土に於てもである。

先日、アイヌ文化の住居「チセ」の話になった。
昔からこうだと言う。だが、それがどの時代迄「物証」で遡れるのか?と質問すると沈黙が起きる。
これは至極当然。そのままの形で遺構出土されて居ないからだ。
故に、「チセ」の復元は、近代に現存したものからなのだろう。
が、その復元ベースはどの時代の物なのだ?
江戸?明治?そんなにその家が持つのか?
我々は知っている。
開拓者の住居も似た作りの物が既に、大正~昭和にかけ現存していた事。
終戦後の樺太からの引き上げ者が、似た作りの住居に住んでいた事。
種々事情で、当然資金不足…ありものでそんな家を作ったと言う結果だ。
外見が似ているとして、それらを「チセ」の復元ベースとしていたなら、飛んでもない話だが、どうなのだ?
(大正~昭和の総茅葺きの開拓者の住居は、写真が残されている)
「チセ」の本物と証明出来る物があったなら、当然国で管理すべき「重文」…あるのか?


これも同様に、事実を「消す」手口だろう。
その消されそうな物を忘れてはならないのだ。

蝦夷=アイヌではなく…
蝦夷アイヌ文化を持つ人々を含む…
蝦夷の中にあるもう一方、「非アイヌ文化を持つ人々」を忘れてはいけない。

もう直ぐお盆…
先祖に想いを寄せる事は必要なのではないか?
古代~中世に、北海道を守ってきたのは…
その「非アイヌ文化を持つ人々」であろうから。