「選択肢は三つ」仮説化成功…生きていた証、続報9

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/29/104828

援軍現れる…
「後三年合戦金沢資料館」さんから、先の「金沢石」のレポートを頂いた。
金沢石の謎解ける…

数名の地元史研究者に尋ねても不明だったとの事。やはり着目されていないんだろう。
そこで、金沢公民館の館長さんが、代々石屋らしく話を聞いて下さった。
内容は次の通り。

①館長の五代前まで遡り石屋
②親父様の代で廃業
③金沢石は、金沢ダム(金沢溜池か?)付近の石切場から採掘の「あま石」である
④「あま石」は脆く加工しやすい為、竈や置物、墓石等製作していた
との事。
ネットで確認する限り、石灰性凝灰岩が分布している様だ。
これも耐熱性は高いだろう。
石の「へっつい」の場合、これで…
①石灰質砂岩
②石灰性凝灰岩
秋田県内で最低二種の材料が解った。

さて、秋田県内では、時宗関連含め五輪塔や板碑が、鎌倉~室町期に出現してくる。
これは何も秋田県内だけでなく、「十三湊遺跡」ら東北一帯で見られる事。
つまり、鎌倉御家人らの流入と共に、石工集団の来訪や技術が伝播したであろう事が解る。
原材料があり、石工来訪…
つまり、「へっつい」は中世で、技術的に可能となった訳である。


金沢資料館さんからは、中世の資料食器らの著書のコピーも頂いた。
そこから、広島県福山市の草屋千軒町遺跡の「竈」の写真にたどり着けた。
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/rekishih/08o00058.html
陶器系であろう。
草屋千軒町遺跡もまた鎌倉~室町期の遺跡と推定されている。
陶器系に関しても、従来から須恵器,土師器は作られており、最悪でも畿内の陶工が五城目に窯を開いた記録は残る。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/054041
そう言わずとも、関東津軽線は北海道~最低尾道迄、行き来しているのだ。買う事すら可能だった。
何より、これは秋田,青森にちゃんと痕跡として未だに伝わっている…「貝焼き料理」…
ホタテ貝の殻を鍋に見立て、貝風呂(キャフロ,小型の竈や七厘)で焼く1人鍋、郷土料理の貝風呂に進化しているではないか。
購入,生産、後の文化含めて陶器系「竈」も選択可能である。


そして、土の「竈」…
これは大仙の薬師遺跡らの「カマド状遺構」で、竪穴住居の「竈」技術が、中世ちゃんと残っていた証であろう。
ここも技術的には問題ない。
しかも…
「日本職人辞典」によると、竈師(へついし)と言う職人が、「人倫訓蒙図彙」と言う風俗絵図に記載ある。
台座の上に土で竈を組みそれを火鉢や炭櫃と共に売る商売があったそうで。
この人倫訓蒙図彙は、1690年に上方で発行おり、少なくとも江戸初期段階で、町屋や長屋の板張りの台所に設置可能な「竈」は存在、流通していた事を示す。
図示されていた「竈」に近い物…「旧黒澤家住宅」にあったこれがほぼ同型。

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実際、直前迄戦国期、その前は応仁の乱南北朝
戦いで破壊された家々を建て直す段階で、住宅建設は旺盛だろう。
その過程で、段々都市化していっている、
と言うか、竪穴→掘立で都市形成される段階でも、これは生業として商業的に成立する。


ここで、まとめ…
中世秋田での「竈」の選択肢…

①石工が「へっつい」製造…

②西日本から陶器製を入手又は地元で製造…

②土で土間又は土台上に構築…

以上三点から、家を建てる当主又は大工棟梁は選択可能であったとの「仮説」が技術的商業的背景から成り立った。
当然これは、同様の背景を持っていた津軽日本海側にも広がるであろう。
後は、現物又はそれを示唆させる物のみ…


しかし何故そんなに「竈」に拘るのか?

それは、遺構外であれ、推定される年代差あれ…
こんな物の存在を知っていたから。
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北海道余市は「大川遺跡」から出土の「竈」。
これだけ、比類する物が無いのにどうやって、年代特定出来るのか?
中世の「竈」に着目したのは、実は北海道が先なのだ。


謎へもう一歩…前へ…