「へっつい」を伝えたであろう石工集団…生きていた証、続報11

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/18/110138

前項迄で、石の移動式竈たる「へっつい」は、石工が居れば製作可能であり、商売として成り立つ…
ここまでは解った。
ならば、その石工は何時から秋田に居たのか?
遡ってみよう。
秋田県立図書館に於いて、リファレンスで文献上「石工」がいつから居たのか?
そこから辿る。

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1297788076173848578?s=19

広報あきたオンライン 2001.1.15 「外町職人魂」より…
江戸期では、初代 石井仁右衛門が佐竹義宣公と共に常陸より秋田に入り、久保田城築城時の、石工棟梁を勤めた事が伝承されている。
ここまでは、石工棟梁の名前迄辿る事が出来た。彼らが居れば、「へっつい」を作る事は可能だ。


なら、石工はどの時代迄辿る事が可能なのか?

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1297847277839478788?s=19

秋田県立博物館研究報告書第二号」 秋田県立博物館 昭和52年2月28日 秋田県における中世石造遺物の形式・分布とその意義-特に鎌倉後期の五輪塔を中心にして- 磯村朝次郎 を秋田県立図書館から紹介頂いた。

この研究報告書でのポイントは…
秋田県内では、八郎潟周辺、雄物川水系中心に、鎌倉末の元亭年代を上限とし、一部南北朝期の期間では、五輪塔ら石製品の需要が大きかった。これは時宗門徒の拡大だろう。

②原材料はほとんど秋田県内の産石である事。
特に非常に珍しいアノソクレース流紋岩製には、造立年代を示す紀年銘が彫りこまれているいる上に、男鹿半島加茂天が鼻の産石に限定され、制作地であると断定可能な事、及び、遠隔地に送られた痕跡がある事。

③制作者は、安東氏との関係で近畿地方から日本海沿岸を遍歴、加茂に定着したと考えられる事。特にこの点においては、前項で紹介した奥田安太郎氏の「浦田七厘 濾過助材」で、浦田七厘は、旅の人が石とその彫り方、作れば売れる事まで教えてくれた とある事や、我々が従来考えてきた「へっついは畿内の方言であり、畿内から送られたか職人が来た」を相互に裏付ける事になる。
この集団なら、秋田県内を歩き回り、県内各地の石の状況や、時として鉱山も発見も可能だろう。何せ阿仁金山は1300年頃が開山と伝わる。概ね鉱山第一期とも符号してくる。


仮説…
秋田中世において…
畿内より、時宗五輪塔の需要で安東氏に招かれた石工集団が、県内各地を調査で回り定着、石の移動式竈「へっつい」及び七厘,置き竈を伝播させた…
同時に、鉱石の発見から鉱山開山の基礎を作った…



参考文献…

「広報あきたオンライン 2001.1.15」外町職人魂 初代仁右衛門は義宣公と秋田へ

秋田県立博物館研究報告書第二号」 秋田県立博物館 昭和52年2月28日 秋田県における中世石造遺物の形式・分布とその意義-特に鎌倉後期の五輪塔を中心にして- 磯村朝次郎

「浦田七厘 濾過助材」 奥田安太郎 (株)精興社 昭和62年4月25日