竈→石工→鉱山への回帰…生きていた証、続報13

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/31/185524

石の竈「へっつい」は続報が出やすい。
先日、6月に再開した「八郎潟地域資料館」を訪問した。

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1302564191602049025?s=19

ここは、中世山城の「浦城」の展示がメインになっているが、八郎潟町でも隣接した井川町同様に板碑があり(むしろ八郎潟が多いとか)、そちらも展示していた。
管理されている方の話では、「切石山から切り出した石材で作られた」との事。


そこで、八郎潟町史の確認を行うと…?

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1303290751695036416?s=19

「石材は森山から採石した角閃安山岩。」「鎌倉、室町時代に盛んに造られたという。」
「県内で最古とされているのが北秋田郡合川町の延慶三年(一三〇九)の板碑だから、郷土への伝搬もその前後と考えられる。」
八郎潟町史」 八郎潟町 秋田活版印刷株式会社 昭和52年11月3日 より…

森山は、隣の五城目町との境にある山で、これが切石山になる、
確かに近代までの採石場跡が今でも残される。
ここに、石工は居た事になる。
が、更に…
最古の板碑が北秋田市だとの記載。
合川町は、「浦田七厘」の旧森吉町と隣接している。

もう1つ…
もう少々北の、藤里町の太良鉱山は1264~1274年頃に開山(藤里町歴史民俗資料館より)
、阿仁鉱山も未確定だが、当初は1309年に金山として開かれたと言う伝承がある。
秋田の第一次鉱山ラッシュは、1300年前後の事の様である。
山師達が調査した延長上に、鉱山や切石山の開発が進んだ可能性が、出て来る訳だ。

追加して…
延元三一三三八(北朝) 九月 金屋五郎左衛門 弟子藤原国弘と夜叉袋に入る その後 磯見浜(五十目浜) 八暦応元幡岱に金屋座(銅冶座)を開いたという 
これに似た話が八郎潟町史の年表に記載があり、何の事か解らなかったが…

http://common3.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/239/239_023.html

鋳物師が、1336年に座を開いてた。
記録では、寺社の釣鐘の伝承。
この付近では、製鉄や鍛治の遺跡もある。
つまり、鍋や釜も含め、炊飯に使う物一式を製造する技術も1300年代には揃っていたのだ。
どうやら、五城目八郎潟は職人町としての歴史は古い様だ。
町自体は、秋田城貴下の秋田郡衙により平安期には成立し、鎌倉末~南北朝位には田畑だけでなく、座や市が立っていたんだろう。
ましてや、井川町には地方湊がある。
瀬戸、常滑らどころか、舶来まで出土している。
そして、湊町遺跡である「洲崎遺跡」が存在したのは、この時代位から。
年代はピタリ一致…
南秋田郡で、1つ都市機能になっている。

そして鉱山へ…
まさか、竈→石工→鉱山へ…
こんな風に回帰していくとは、考えていなかった。

が、豊かさを求めれば、自ずと「資源利用」をどうする?が、テーマとなる。
技術集団が招聘されても不思議ではない。
そして、豊かさは、最後には食文化に反映されぬハズもない。
旨い飯食わずに、始まりはしないのだ。


勿論、今後も続報を乞うご期待…



参考文献

八郎潟町史」 八郎潟町 秋田活版印刷株式会社 昭和52年11月3日

あきた(通巻239号) 1982年(昭和57年) 4月1日発行