南部氏の城館を追う…安東vs南部抗争と北海道史との合致点

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/10/180000

妄想は妄想。
が、別に追跡を止めた訳ではない。

以前より、北海道史には安東氏vs南部氏の抗争が絡む…
これは何度も発信しているが、なかなか南部氏を掘り込む事が出来ていなかったし、以前からの情報(提供者はウポポイのマーク氏である)で、南部氏の城でアイノ系の出土があったとの事、そこで、旧南部領の「聖寿寺舘遺跡」と「三戸城跡」にフィールドワークした。
細かい所はツイートで。

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1308524237645180928?s=19

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1308621322679803905?s=19

上の写真は「聖寿寺舘遺跡」の案内所(出土品展示あり)のパネル。
骨角器やシロシ(アイノの目印)入りとされる陶器片が、城館内の工房跡周辺から出土とされる。出土の概略は南部町歴史研究会発行「ふる里なんぶ 第四号」で把握済みで、本州に居た「本州アイノ」との関連を示唆させている。
つまり、交易材ら、何らかの理由で骨角器を工房で作り、本道アイノとの取引に使ったと言う感じ。
また、「ふる里なんぶ」では、本州アイノは、村の外郭付近…つまり村の成立後に来たとの事らしい。
ん?中世に於いては、骨格器迄本州に依存した可能性まであるのか?
が、出土品そのものが、特別展示へ貸出中で確認出来ないと言う、何時もの間抜けなオチがついてしまった…

と言う訳で、次に、三戸城のパネルにあった南部氏縁の城館の中に、同様の骨角器が「浪岡城」でも出ているとの記載を頼りに、「浪岡城」を訪れる事にした。
詳細は、こちらツイートで。

https://twitter.com/tekkenoyaji/status/1310409439380291585?s=19

浪岡城は浪岡北畠氏の居城で、鎌倉倒幕や南北朝での南朝方として活躍した。北畠親房,顯家,顯信らの血統を受け継ぐとされる。
故に、浪岡城と言うより、「浪岡御所」と言われる。
ここで、出土品を展示している「中世の館」を訪れたが、「アイノ系遺物」の展示は…無い。そこで、館員さんに確認した所、答えは「❓」全く聞いた事が無いそうであった。
ここは、営利法人に管理委託され、学芸員が居ない事もあるが、これだけセンセーショナルな話題を知らぬのは不思議としか言い様が無い。
何かの間違いか?別の城跡なのか?ガセなのか?全て謎である。

いずれ、少しずつ「本州アイノ」についても、南部氏の動向についても調べていく必要はある。
何故なら、あまり着目される事が無いが…
安東氏と南部氏の動きのタイミングが、あまりに合致しているからだ。

まずは…
浪岡城…1460頃築城,1578年落城…
聖寿寺舘…1300年代中庸築城,1539年炎上…
アイノ系が居たのこの聖寿寺舘炎上の時期、1500年代中庸迄に限定される。
何故なら、後の三戸城にはそんな伝承が無い。
で、浪岡城築城は、ほぼ十三湊陥落と安東盛季の島渡りの時期、つまり南部氏の東征と合致。
なので、安東政季,武田信広の北海道脱出もこの時期に合致し、安東政季の檜山入りに続く。
そして、アイノ系が聖寿寺舘に居たのを確認出来るのが、この時期。
当然の事で、蠣崎氏古書にある「コシャマインの乱」や南部氏古書にある「蠣崎蔵人の乱」が、この時期と合致。

この後、蠣崎氏は蝦夷衆とお互いの不信で揉めまくり、その後1550年の安東舜季の島渡り仲介で和解、「夷狄船舶往来法度」に至る…
これらと浪岡御所落城や聖寿寺舘炎上それぞれ落城の時期が合致し、その後の城館にはアイヌ系の痕跡が消えると。
それぞれの動きがこれだけ合致してるのに、何の関係も無いなんて、あり得ない。

更には、檜山安東氏も湊安東氏も、安定的に北海道や海外と交易して財をなし、安東愛季に至っては、安東盛季以来の「日ノ本将軍」を名乗る始末。
と、すれば、位置的関係から鑑み…
余市ら西蝦夷地衆は、日本海ルートを抑える檜山,湊安東氏とずっと関係維持しており、南部領から行ける東蝦夷地衆とは、動きが連動していない事になる。
勿論、安東舜季島渡りの時は、それぞれ西の「ハシタイン」、東の「チコモタイン」が、纏めていたとされているので、動きが連動せずともおかしくはない。
まして、「ハシタイン」は勝山舘にも居を構えるに至る。

これでも、安東vs南部の抗争、浪岡御所の動向が北海道史に絡まないと言う方がムリだろう。
更に、この時期の蠣崎氏の動きもかなり微妙である。
まぁそれはそうかも知れない…
この時、蠣崎慶広は安東氏の代官的武将に過ぎず、安東愛季に招聘され、戦闘に参戦しているのだから。

結局、去年段階で妄想していた事…
少しずつ裏がとれて来た気もする。
更なる追跡は必要だろう。
そして、これらに決定的な物証となるのが、「生きてきた証」たる「井戸」や「竈」の文化なのかも…