この時点での公式見解⑤…新北海道史に描かれた北方警備、否、「決死隊」の様子

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/22/095523
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333
前項,関連項に引き続き、では、新北海道史では、北方警備がどう描かれたのか?
少し紹介してみる。

風雲急を告げるロシア船の南下、その中で東北諸藩は幕命により、蝦夷警衛の任務に当たっているのは事実。
第一警衛について触ってみよう。
まぁ実態はこんな所…

松前蝦夷地の警衛松前藩の任務であったが、同藩は兵力も少なく力もまた足らなかったので、見るべき配備がなく、事変あるごとに後詰めを必要とした。後詰めに当たったのは津軽藩が第一、南部藩が第二で、これに次ぐのは秋田その他の奥羽諸藩であった。」

まず、背景はこれになる。
事実、寛文の蝦夷乱(シャクシャインの乱)には、津軽藩は派兵,秋田藩も出撃準備を整えていた様だ。
事実、ロシア南下を松前藩は捕らえていた様です。
しかし、何も出来なかった…
何故だろう(棒)

で、ロシア使節引見らで、津軽の函館警衛らが開始、南部藩が交代の準備中に、幕府直轄へ突入する。
「文化四年五月、函館奉行羽太正養は、ロシア船来襲の報に接すると、ただちに奥羽諸藩に出兵を命じた。」

「新北海道史 第二巻通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…


ほぼ翌日~数日内に出兵、津軽,南部,秋田,庄内…総勢約三千から開始。幕府も目付遠山景晋を先頭に、若年寄堀田摂津ら幕閣も派遣。落ち着きを見せる迄継続。

で…
「前略~南部、津軽の二藩は、遠境の離島までも毎年守兵を派遣し、その経費は莫大な額に達するものと思われるが、事に昨年奥羽地方は凶作で、~中略~二藩が蝦夷地に出兵すること十六年に及び、その経費一か年一万五千両と見積っても、すでに二十四万両の臨時支出となっており~後略」
蝦夷警衛を命じられた諸藩の士卒は、寒気と物資の欠乏とに苦しんだ。」
「ことに文化四、五年ロシア船来襲に際して急ぎ出張を命じられ、その地で越冬しなければならなかった者には、多くの犠牲者を出した。かれらはおおむね奥羽の士卒で、寒気にはなれているはずであったが、木組はもちろん柾、釘のはてまでも国元で整え、そのうえ大工、職人、土方までも引具して行ってまず建物から建てなければならぬ有様で~後略」
「前略~ことに野菜はすこぶる欠乏し、~中略~したがって浮腫病を生じ、春になってたおれる者が多かった。」
「前略~ここに越冬した百人の隊員のうち七十二人はこの地の土と化し、十三人は引き揚げ途中で脱落し、…
…無事に帰った者は十五名にすぎなかった。他藩でも、犠牲者はすこぶる多かった。」

「新北海道史 第二巻 通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

文化二年の津軽の士卒日記中には、択捉島番所があまりに粗末で、根室か厚岸,それもダメならせめて国後島と願い出たが許されず。
なら番屋改築と上申もNG…
ぶちギレた挙げ句、番屋を破壊して、無理やり改築させたとまで。

幕府は金を「貸した」は、基本的に全て諸藩の持ち出しの様です
ただ、国元は飢饉の真っ只中。
津軽,南部は石高増と藩主官位上げはしたものの、それまで。
これが、新北海道史に描かれた第一次北方警備の姿。
まぁ国防ですので…と、言えばそれまで。
やたら略が多いが、文字数の問題と日記の引用なので生々し過ぎる為に、記載を止める。
勿論、この記事内ではほぼ松前藩の記載は無い。

北方警備の実情も、知った方が良い。
第二次警備で伊達藩が何故、領土を寄越せ!と言ったのはこれが理由だろう。
何のメリットも無く、そんな状況を続けられる訳が無い。
利を求めて、ある意味当然。

東北諸藩の北方警備の話は、北海道だろうが東北だろうが、教育レベルではほぼ触れないであろうから。
そりゃ国元では飢饉、派兵すれば帰れず…
教えられるハズが無い。
まぁ松前藩の記録がどうなっているかは…知らん。

因みに、南は日本海側は越中(富山)藩辺り迄、スタンバイしていた模様。
海上運輸の準備まで幕命が下った様なので。
実際、派遣されたかは、記載無し。
太平洋側は、会津藩は派遣されてますね。

まぁ、ご一読される事をお勧めします。



参考文献:

「新北海道史 第二巻通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日