北海道には文字がある続報3…大川遺跡出土品に隠されていた中世の硯

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暫く間が空いたが、久々の「北海道には必ず文字がある」シリーズである。
秋田県立図書館に、北海道余市の「大川遺跡発掘調査概報」があり確認中である。
この文献は、恐らく発掘調査報告書を受け、その後の調査確認結果を年度毎に纏めた物の様である。

この「大川遺跡」こそ、我々が眼をつけた「置き竈」が出土した場所であり、石垣が残された「茂入山」やヨイチ運上屋とは、余市川の対岸に当たり、余市川改修工事に伴い発掘が行われた遺跡である。

以前から発掘調査報告書で、硯が出土していたのはキャッチしていたが、基本的に江戸期の物と判断されており、古いものはないものか?と話がでていた。
たまたま借りられたので、何気にパラパラ開いたらいきなり「硯」の写真があったので、まずはそこから確認である。
この部分は「大川遺跡出土の石製品について」のテーマで垣内光次郎氏(石川県立埋蔵文化財センター)が報告したものである。


「今回、私が分析する機会を与えられたこの三種類の石製品は、その製品構成や産地別の内訳から、東日本の近世遺跡で多くみうけられる様相に近似したものと判断される。」
「さらに石製品の中でも、硯は遺跡に居住した住人の文房具、砥石は住人の生業に関わる道具、石臼は住人の飲食に関する家財道具として整理される考古学資料である。」

「大川遺跡出土の硯は、そのほとんどが近世後半以降の製品と判断されるが、それを産地別に整理すると、滋賀県の高嶋硯、山口県赤間関硯、山梨県の雨畑硯など、列島の各地に所在する硯産地の製品に比定される。いずれの硯も各産地の硯職人が製造した硯である。」
大川遺跡からは、約六点の赤間関硯が出土している。」
「4・5は裏面に「赤間関が刻名された硯である。赤間関硯の場合、刻名は産地だけが刻まれ、高嶋硯の様に品質や石質の刻名は見受けられない。」
「二点とも赤間関硯を代表する紫雲石とみられる。この紫雲石は赤色の酸化鉄を含んだ頁石で、江戸時代の中期以降は山口県厚狭郡楠町西方倉などで採掘された石材が使用されている。」

「遺跡から出土する硯には、硯原産地の職人が研削した硯と消費地の住人が硯石に近い石材を加工した硯に大別される。7・9~11は前者、12は後者に属する硯である。」
「7は裏面に台を削り出した硯で、戦国時代頃の鳴滝硯(筆者註:京都の清滝渓谷又は鳴滝渓谷産)とみられる。」
「9・10の硯は中砥石で知られる天草砥を加工した製品である。天草は西日本を代表する中砥石で、熊本県天草郡大矢野町江樋戸の明治山で採掘されている。この天草砥を硯に加工したのは、その仕上がりからしても硯職人の手に拠ると考えられる。」
「12は硯面の削りが荒く、加工痕をとどめた硯である。石材は京都の鳴滝産の仕上げ砥石であることから、遺跡住人が手持ちの砥石を硯に加工したものであろう。」


「1994年度大川遺跡発掘調査概報-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概報Ⅵ-」 e「大川遺跡出土の土製品について」 堀内光次郎 1995年3月 より引用…

ポイントを幾つか上げて見よう。

赤間関硯…
六点の内、二点については、紫雲石が使用されており、江戸中期より前に産出,製造された物と言える。

②清滝石・鳴滝石…
文中では鳴滝石とされていたが、近隣の清滝渓谷と鳴滝渓谷から産出される石の様である。
実はこの石こそ文献上、最も古くから記載された硯材の様で、藤原為家の歌に登場するとか。
しかも、各硯の中で最も古い硯の可能性あるのに、単独頃に扱わずその他に混ぜるのは如何なものか?
さて、この鳴滝硯の出土箇所が遺跡上の何処なのか?発掘調査報告書で整合する必要があるだろう。それが中世と比定出来る位置ならば、この硯は中世,戦国期より北海道で使用された物と特定可能になる。

③天草砥加工品…
我々とすれば、「天草」には反射的に反応してしまう。
それも中砥石と言う事は、通常の硯より墨は荒く削られる事になる。それを好む方のカスタム品…何とも特徴的である。

④道内加工の鳴滝硯…
これも出土箇所の確認が必要だろう。
何せ、砥石をわざわざ道内加工しているのだ。つまり、道内で文字を書く為に使われた絶対的な物証となる。
文字を書かぬ者が硯なぞ加工してまで使うハズ無し。

更に、石製品と銘打ったこのレポート、例の「置き竈」に関しては全く触れられもしていない。全くの番外扱いなのだ。

実はこのレポート、まとめが無い。
更に全体のあとがきに於いても一切触れられていないのだ…まるで単にあった事のみ報告するが如し。
文字が無いとされる戦国期に硯があったとすれば、かなりセンセーショナルなニュースとなる。ましてやここでは、金銅兵庫鎖ら武将級と思われる武具まで出土している。
そんな武将なら、必ず文を書く。
書かねば、周辺の武将との衝突が起きかねない訳で。
この段階でも、色々府に落ちぬ点が多いのだ。
昨今、ニュースらで「学問の自由」が叫ばれているが…これが「学問の自由」なのか?
センセーショナルなニュースは流せないのか?
関わった研究者や現在の先端で働く研究者らが、あまりに不憫で、怒る処か笑いが止まらない。

意図的な物を感じる理由はまだある。
別の土器絡みのレポートでは、コンロ…つまり貝風呂(きゃふろ)において、運上屋のサイン入り出土してるので、敢えて土器扱いで記述があるのだ。それでいて、「置き竈」に触れないのは…疑いを持たないか?
考えてもみて欲しい。運上屋が有ったのは、余市川の対岸、流出しても大川遺跡の方向ではなく、海へ払いだされるだろう。
つまり意図的に持ち込まれているだろうと言う事。
では、ここに江戸期何があったのだ?
擦文の墓や、チャシと思われる空堀まであるのだが。

改めて…
これが「学問の自由」か?
これが北海道の歴史学の実態なのだろう。

我々には、盾になる権威も、背負う学閥も、自由に使える金も、集中出来る暇もない。

が、我々には好き勝手言える「学問の自由」はある。
まずは、我々はやるべき事をやるだけだ。


参考文献:


「1994年度大川遺跡発掘調査概報-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査の概報Ⅵ-」 e「大川遺跡出土の土製品について」 堀内光次郎 1995年3月