この時点での公式見解⑥…幕府の帰「俗」方針であり、明治政府に非ず

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/30/223653

新北海道史にどんな事が書かれているか?
前回からの継続である。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/123150
内容的には、この項の延長であろうか?

まずは、三官寺設定の頃、寛政~享和の第一次北方警備の頃の話である。

「幕府がもっとも力を注いだのは蝦夷の同化にであった。長い間の接触によって和人の影響はしだいに蝦夷に及び、松前蝦夷はほとんど姿を消し、松前に近い地方、たとえば六箇場所の蝦夷などは、永住もしくは出稼ぎの和人に交ざって日本語を解し、立居なども和人のまねをするようになっていたが、大部分の蝦夷は従来の風習を守り、漁猟生活をおくっていた。」

「幕府は直轄にあたって、蝦夷の同化方針をとり、耳環、入墨、メツカキク(不幸のある際刀の峰で打ち合い、不幸を招いた憑神を追い出す儀式)、熊祭りなどの異風を禁止し、名を日本風に改め、男は月代や髭をそり、日本風の髷を結び、女も日本髷を結い、衣食住を日本風に改めることを奨励した。」

「改続したものは新シヤモと呼び、役蝦夷に取り立てたり、会所で使役したり、オムシヤの時に特別待遇したりした。」

「一般に蝦夷といわれるのを嫌ったので、自称であるアイノと呼ぶようにもなった。この頃を境として蝦夷の風習は急激に崩れていった。」


「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

この第一次北方警備の段階で自然同化は、進んでいた模様で、全くもって強制同化はやってはいないように描かれている。
勿論、幕府の方針であり、明治政府以前の話である
こと、言語に於いては、蝦夷訛(と言っておく)で話すようにしていたのは、他藩との交易を防止し、場所制崩壊を防ぐ為の松前藩の方針で、むしろ蝦夷訛を強制された事になる。
そして、幕府の方針に対し、松前藩は積極的では無いともある。
実際、択捉島番所の役人に嫁いだ蝦夷のご婦人は、全く本州と変わり無い格好で場所の運営の手伝いをしていたともある。


更に、松前藩復活後、二度目の直轄化と第二次北方警備の時代は如何なものか?。

「前略~この時代には拓殖による移民の増加とともに、蝦夷の和人化が急激に進行するに至った。」

「前略~今回は直捌を行わず、請負人をそのままとし、蝦夷奉行所の直轄とし、請負人が蝦夷を使役する場合は官に出願してこれを借り受けさせた。したがってその賃米、交易品などは請負人から詰合官吏に差し出し、官吏がこれを蝦夷に渡すために、その品質、員数などに不正をはさむ余地はなくなった。」

「さらに場所支配人、番人などが夷女を妾とすることを禁じ、蝦夷の男女は広く他場所の者と結婚することができるようにし~中略~屋内に湿気を受けないために床を張ること、田畑を耕作し、食べ物を貯蔵すること、和語を使用すること、その他すべて和風を学ぶことを推奨し、死者のあるとき家を焼き払うこと、男女ともに髪を切り耳環を掛けること、女子が入墨をすることなどの習慣を取り除くことに努めた。しかし、風俗を改易することは容易な業ではなく~中略~自発的改俗をまつ方針をとり、かつ髪髭はそらず、総髪に結ばせることにし、伺いのうえ安政三年十二月、このことを蝦夷地在勤の吏員に布達した。」

「こうして風俗を改め、名を和名に改めた者は帰俗土人と称し、他の土人と区別し、和人同様白米飯を食い、日本服を着、会所もしくは運上屋に来たときは床の上に着座することを許したが、ことに役土人にはその役名を内地同様に改め、総乙名を庄屋、~中略~名主以上には裃、年寄、百姓代には羽織袴を着用することを許し、儀式の際には特別の待遇を与えた。」

「場所によっては行過ぎでのちに戻った所もあったようではあるが、多い所は大部分がもはや蝦夷ではなくなっていたのである。」

「新北海道史 第二巻通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…


出典が違うので鵜呑みに出来ないが、各場所での帰俗土人数の割合は、最大76.4%…忍路、最小0.2%…十勝とバラツキがある。
人口比率にもよるが、何せ、天然痘で全滅寸前迄至った場所もあると言う経緯がある。
もはやこの段階では、先に地方吏が(独自に)強制し反感があったので、それすらしていないとある。
つまり、民俗的同化が起こったのは、交流が盛んになった事からであり、政策的に行い始めたのは江戸期から。
実は、屯田兵制度も、第二次直轄から既に初めている。
希望者や罪人の使役等で、それぞれの身分で開拓に当たるのは明治からではない。
明治政府は踏襲し、拡大,強力に進めたに過ぎない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333
この点では、「秋田県史」の記載にあった幕府の方針と合致している。


と、気になる事が書いてある。
前述の通り、これより前に床のある住居には住んでは居ないのが主流の模様。
つまり、蝦夷系住居とされる「チセ」があの形になったのは、第二次直轄の幕府の指導から…と言う事になる。
それすら幕府の技術指導により完成された文化なのだ。
どおりでおかしいと思っていた。

ちゃんとそれなりの答えは書いてある。
この辺の内容を改訂で再編すれば、当然おかしな事になる…中央史の資料と言う「物証」があり、捏造なぞ出来ようもない。
故に、明治以降しか改訂出来ないのであろう。

この新北海道史が編纂された段階では、こういう認識で編纂されていたと言う事。
まぁ「大友堤」のように、実際の幕末施策は明治政府が引き継ぎ、開拓使が手柄を全てかっさらったと言うのが実態。
それは、新政府のプロバガンダの要素が当時の教育に反映される訳なので、やむ終えまい。
それをそのままにするか?事実に合わせ修正するか?は、それこそ教育の問題。
ただ、修正したとしても、開拓使の功績にキズが付くような事ももうあるまい。


この内容に不満な方は我々に言わず、改訂しない北海道教育委員会へ言って戴きたい。
ついでに…
上記引用中の「帰俗」と言う単語は、はそのまま記述した。
民族ではなく、民俗って事であろう。


ここだけみても、考えてしまう。
よくSNS上でアイヌ問題について討論が交わされているのを見掛けるが、誰も「新北海道史」を読んでいないのか?
教育委員会編纂の「公式歴史書」なのだが。
確かに、明治以降は刷新されている様だが、歴史を論ずるなれば、源流から辿らねばならぬのでは?
そこに至る経緯が解らなくなる。
最後の総本山は、各学者の個人的な著書や論説文ではない。
それらを纏めた「公式歴史書」だと思うのは我々だけなのか?
この「公式歴史書」を観た限りでは、アイヌ問題そのものが、端から間違っているとしかみえないが。
まぁそれぞれの考えは否定しない。

我々とて、まだ確信には程遠い。
調べる事だらけなのだ。