紀年遺物による「安東兼季」と石工活動の特定…生きていた証、続報15

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/06/175401
前項迄で、へっついを作り得る石工集団に目をつけた。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/25/104404
直接はここからの追跡となる。

なら、その男鹿に定着したであろう、石工集団がいつ頃から活動し得たか?追ってみよう。


「本県における最古の宝筺印塔は、鎌倉時代後期のもので~中略~使用された石材は加茂が流紋岩、寒風山は輝石安山岩、黒崎は石灰質の砂岩、三倉鼻、森山は角閃安山岩からなっている。このうち、加茂・寒風山麓・三倉鼻・森山産のそれは、当時としては遠隔と思われる地域にも移送されている。専門の石工がおり注文生産を行っていたのである。」「前略~これは応永初年の製作になるものである。したがって、男鹿産の宝筺印塔は鎌倉後期から室町初等に製作されたものとみなして大過ないであろう。」
「次に五輪塔の場合も同様である。~中略~ことに流紋岩製のものは極めて広域、遠隔地に運ばれているのは注目される。男鹿加茂で製作されたものが、津軽十三湊、米代川中流二ツ井雄物川上流の大曲、庄内の加茂にまで行っている。いずれも鎌倉後期の遺品である。しかも、元享年間、安東氏内乱のさ中であるのは概述した。」

男鹿市史 上巻」 平成七年三月三十一日 より引用…

お陰様で関わりを調べる必要もなく、南外らでへっついに使われた石灰質砂岩が登場、黒崎から産出とある。
軟質な凝灰岩、硬質な安山岩…メジャーな石材ではない石材もこれで揃う訳だ。
しかも、宝筺印塔の形はほぼ関西形式。
板碑も関東形式は鹿角位で、奥大道伝播は少ない。圧倒的に日本海ルート。
板碑の隆盛はむしろ、関東なのにだ。
シーパワーを無視すれば、見えるものも見えなくなる。

さて、では秋田県内の宝筺印塔,五輪塔、なにより数の多い板碑の年号から、その起源を追ってみよう。

『「秋田県の紀年遺物」奈良修介 小宮山出版(株) 昭和五十一年六月三十日 』の年表によれば…
秋田県最古の板碑は
鹿角市八幡平の正安元年(1299)
北秋田市川井で延慶二年(1309)
ここが最古級。
後に1320年頃から湯沢,平鹿で拡散していくが…
決定的なのは1340年頃、男鹿,南秋地区でバタバタ出来始めるとラッシュになる。
同一年号で複数基建ち始めるのがここからで、年代特定出来るものが全体の三割程度なら、全体像としては更に顕著だった事になってくる。
更に、板碑だけでこれだけ傾向が出て、尚、五輪塔や宝筺印塔までもがこの時期から製作され、十三湊や庄内にその痕跡を残す。
つまり、石工が定着したのは、この時期であろう。

では更に…
この時期に男鹿周辺を抑えていた人物は誰なのか?
この人物こそ、石工集団を囲い込み、定着に持っていった人物になる。
実は、男鹿市史だけでなく、秋田県史他の史書らにその答えが載っている。

男鹿市は北浦にある「北浦日枝神社(元山王社)」には、珍しい南北朝期の棟札が残されていた記録がある。
日枝神社」を誰が寄進したか特定されているのだ。

「島郡地頭 安東兼季」…
そしてその年号は、康永三年(1344)となっている…

彼が大檀那を勤め1344年に「日枝神社」が建立された。出来すぎ(笑)
この頃から、十三湊や秋田湊(土崎湊)が更に隆盛していき、安東氏は勢力を拡大していく…その財力を背景にして。

当時に限らず、石材には湊に関わる重要な用途がある事が知られている。
転覆防止のバラストとして、荷物が満載されるまで船底に置いたのだ。
湊がある場所の近くには、石材が必要と言うバックボーンが付く。
財を得る為の交易に、石材と石工集団は必須だった訳だ。
面白い事にこの後、室町期に南秋地区は、安東氏により陶工や鋳物師が呼び寄せられ、農業だけでなく職人の街として座が開かれ、市が立っていく。


つまり…
交易拡大の為、船の大型化が必須になる安東氏にとって、バラストや信仰の核である板碑や五輪塔建立の為、石工集団が必要だった…
それが定着し、活動を拡大していったのは、1340年頃の男鹿,南秋地区からであり、「安東兼季」の手による…


ところで…
何故、その石工集団がわざわざ日用品たる石の竈「へっつい」を作ったのではないか?と言えるのか?そもそも論ではあるが。
竈なら、土で作れば良いのだ。
いや…
石の竈「へっつい」を必要とする人々が居た。
土で構築した竈はダメ、囲炉裏もダメ…石の竈や七厘でなくてはならぬ居住スペースで生活する人々…それが「へっつい」の最初の需要層となるだろう。
見つけました…

それは「船乗り」達…