「竈」を必要とした需要層は誰?それは…生きていた証、続報17

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/19/073435
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前,前々項でネタ振っていたが、元々この「竈」の話は土間が大きく取れる農家や城館と言うより町屋がベース。
何故なら、土間が大きく取れるなら、黙って土の「竈」を構築すれば良いだけ。
技術だけ言ったら、中世にも「カマド状遺構」は存在し、江戸期で現存する物はほぼ土間直接と言うより、台の上に構築される。
秋田市内の「旧黒澤家住宅」では板の間にあるが。

狭いスペースを有効利用しなければならぬ町屋ですら、火器が残っていない…ここが疑問だった。
なら、似た様な状況…
①狭い
②掘立住居の様に火災を防がなければならない
③煮炊きが絶対に必要になる
こんな条件が必要になる物はないのか?
実はずーっと考えていた。

1つあった。
この人々なら、簡易的な粗食になろうとも、これら条件の元に暮らす必要があるなと。
それは誰?

答え…「船乗り」です。

一度航海に出れば、港に着く迄は船中で暮らす必要がある。
船は「狭い」、船での火災は逃げ場無し、腹が減っては漕ぐ事もままならぬ…
全ての条件が必要となり、各港へ文化伝播させた人々である事を考えたら、条件が整う。
なら船の歴史を見ていくしかない。
メンバーの1人の検索能力に頼る…
さて、では船乗りはその辺をどうしていたか?

まずは江戸期…
博物館探訪 様のHP、「菱垣廻船と樽廻船」より…「なにわの海の時空館」なのかな?
江戸期の弁才船(北前船)らで使われた船について。
http://museum.starfree.jp/213_bezai/371bezai1.html
石や土で作った「竈」を設置…
当然と言えば当然か。
既に江戸期なら、「くわらんか船」や「風呂船」が水上で運航されている。
「竈」として現存するので、船に乗せれば良いだけ。

では、中世…
残念ながら、日本の船が見当たらない。
大航海時代は?   
ゴマフのウェブサイト 様の「OSND 徒然なるままに」の「バルセロナ海洋博物館」より、ガレー船は?
http://gomafu.sub.jp/07cruise/page019.html
これは「囲炉裏」型だが、煙いのか?甲板から吹き抜け。
これなら、雨の時にどうする?揺れた時は?
かなりのリスクがあると思うが。

では、古代は?
中内清文 様の「海洋総合辞典」より、「奈良・平城京歴史館/遣唐使船(復原展示)」である。
http://oceandictionary.jp/mus/mus_japan/mujp37.html
こちらの復元展示にはこうあるとの事。
「賄い部屋」と題する展示パネルには次のように記されている。
「「吉備大臣入唐絵詞」などの遣唐使船の絵には、甲板の上に三つの屋形があります。船尾の屋形は遣唐大使の部屋として、 真ん中の少し小型の屋形は竈(かまど)を据えて火を扱っていたのではないかと想像しています。
遣唐使船では航海中に何を食べていたのか正確な記録はありませんが、1日あたり干飯(ほしいい)(ご飯を乾かしたもの) 1升と水1升を支給した記述がありますから、これが主食でそれに何かの干物などを食べていたと考えられます。 干飯に水をかけてもなかなか柔らかくなりません、多分お湯を沸かして皆に配ったのでしよう。
航海中に火事を出した記録もあります。夜に明かりを灯したのかもしれませんが、お湯位は沸かしたと思います。」

残念ながら現品はない模様。
が、一度出港すれば、港に巡り合うとは限らない。必ず、船内飲食は必要になる。


ここで、船に必要な条件を考えてみよう。

「囲炉裏」で薪を焚けば、
煙い…
火の粉が飛ぶ…
揺れると自在鈎は使えない…
こんな不合理が出る。
ガレー船の様にはし難いだろう。

これを克服するには?
重く安定していてコケない…
火の粉を防ぐ閉鎖性…
煙が出にくい構造、出来れば炭との組み合わせ…
船乗りが欲しがるのは、「へっつい」…
実際、明治の「簑虫山人絵日記」の「軽井沢村名産 石工ノ図」に描かれた「へっつい」は竈型だけでなく、四角い物がある。
こんな形。
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これなら木枠ですら固定可能である。
現在、復元展示されている物も、羽釜を固定する枠と行火の様な火器の組み合わせで、簡単に倒れない構造なのは言うまでも無し。

如何だろうか?
少なくとも、遣唐使船以降、特に中世に至り、日本海ルートでの交易はこのブログでも記述してきたが、その船乗りこそ、船に設置する「竈」を最も必要とした需要層であろう。
そして、間接的だが、船火事の記録から、火器の使用は証明されている。
ましてや、それら船乗りが行き交う港の町屋なら、需要は増える。何せ、昭和の時代でも、便利さで飛ぶ様に売れたと言う。

更に…
秋田城の出土品「鉄の羽釜」は、渤海使の持ち物又はそれを秋田城の鍛冶がコピーした物と考えられている。
まさか渤海使が飲まず食わずで秋田まで来る訳もない。故に「羽釜」を持っていた…と言う事。

残念ながら、現品が残るハズは無い。
壊れれば、海に廃棄しただろう。
が、各船の復元根拠として十分な理由と、交易や人の動きとしても根拠にはなるだろう。


石工は、作る事が可能…
船乗りは、使い、伝える(購入)する事が可能…
秋田には、それを作る為の石材があった…
折りは、交易で繁栄し、町が出来て、市や座が出来てきた…
竪穴→掘立での、改築が進む…
「へっつい」は売れる…

全ての条件が整うのは、1340年頃からになるだろう。
そして、それらと共に遺跡から「竈」の痕跡は消えた…
繁栄と都市化の波の中へ…