この時点での公式見解⑩…新北海道史にある「私娼,遊郭」、そして彼らの痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/24/101104

もっと掘り下げる。
遊郭や花街の類いである。
元々、この件は全く別の切り口で、いずれ当たる気でいた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/21/050255
わざわざ記録に梅毒の話が出たのもあるがむしろ、ここまで記録されているなら、遊郭や花街のバックに必ずや存在する人々の痕跡になるだろうと思っていたからだ。
当然だ。特殊な人材管理や治安維持等、独特なノウハウが必要となろう。
こんな場所には、必ず「裏稼業」をする人々が必要となる…そう「弾左衛門」の様な…
砂金の代用通貨による貧富差や飢饉による荒廃、必ずや性風俗の話は出てくる。

いずれは、と思っていたら「新北海道史」には一項割いて記載があってので正直驚いた。
つまり、それだけ盛んに行われていた事になる。
ただ、これを単に「破廉恥」な事などと思ってはいけない。
公証遊郭は、昔はあったのだから。
故に、むしろ我々の視点…「裏稼業」の人々が集まり得る痕跡と考えて戴きたい。


まず、松前から…

「儒医淡輪元朔が寛政三年に著わした、東奥遊記(新しい道史第七号掲載)によると、このころ和人地にあった病気には流行病のほかに、梅毒、脚気、湿痺、血毒、気積などがみられる。松前は船員や出稼人が多かったから、淫風がはなはだしく、多くの私娼がいて、中には独借屋と呼んで一人で店を借り、客を迎え、人の招きに応ずるものが城下だけでも二、三百人いたといわれ、性病の流行がはなはだしかった。函館には蝦夷を相手にする者がおり、石狩には蝦夷女の私娼もあった。ゆえに梅毒は蝦夷にまで持ち込まれ、多くの罹患者をみるようになった。」

「新北海道史 第二巻通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

一応、藩制時の疫病の項である。
更に、直轄領時の函館の風俗らの項で、遊郭発生らを詳しく記載してある。

「出稼人が多く入り込み、遊人の多い本道では、これを相手とする婦人の多い事は当然で、がのじ、あやこ、こもかぶり、洗濯女などとよばれ、船宿に出入りし、もしくは、雇いに住み込んでいる者が、港や宿場にあって、交通の発達した安政ころには、種々の異名をもって、広く散在していた。」

松浦武四郎のしるすところによると~中略(註:地方別隠語一覧あり)~多くは所の産物を隠語としていた。そして、蝦夷地の開発に伴い、蝦夷地にも出現し、口蝦夷地方には、初春から秋にかけて、その地方の漁業機関だけ、三港から出稼ぎする、鰊七連(一連五十疋)をもって取引きされるために、ななつらと呼ばれる売春婦ができ、安政以後には夷女しかいなかった小樽方面に、浜千鳥と呼ばれる売春婦が発生していた。東西蝦夷地交通の要路にあたる、長万部、山越内にもまた売春屋ができ、出稼芸姑などまでが置かれるようになっていた。」
「したがって三港には早くから遊里が発達し福山では、船頭を相手とする薦冠り、蛇、がのじなどと呼ばれた蜜娼があったが、文化年間、遊里は一つの街をなし、河原町、蔵町、袋町、中河原町の四丁には数軒の遊女屋が軒をならべ~中略~江差では、鰊どきにもっとも賑わう津花町に、浜小屋と唄え、船客、労働者などを相手とする酒屋、煮売屋が仮小屋を作っていたがしだいに瓢客も迎えるようになり、繁昌のときは一戸分二間四方の地に丸太を組み~中略~数組の遊客を迎えたといわれている。」
「函館では~中略~冥加として一か年人足七百人を差し出すこと、類似の隠商売を取り締まること、抱女は一軒につき八名に限ること、怪しい客があれば訴え出ることなどを条件として、まず五か年の営業を許された(註:21軒)。」
「ほかにごけ、がのじなど総称し、地方によって風呂敷、車楷などの名を持つ売春婦が密かに客を呼び、もしくは船夫を相手とする密娼が居、また市民の内にもこれらの女を抱えて置いて、付船などの求めにより出入りさせる者が少なくなかった。」
「函館奉行は、安政三(一八五六)年五月、かかる密娼は発見しだい蝦夷地開発場に派遣することにしたが、上ノ山町に遊郭が設けられると、江戸その他の地方と同じくこれを郭に送って、十年無給で奉公させることにした。上ノ山の郭は、料理茶屋が安政六年二月から、江戸の吉原にまねて組織を改めたものであった。この郭には官から金を借り、入港外国人のために、異人休息所、もしくは異人揚屋と呼ばれた三層楼が建てられた。」

「新北海道史 第二巻通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用…

ポイントとしては…
①江戸中期には既に私娼が居て、それだけでなく、蝦夷相手や蝦夷の遊女もいた。
②気になる点、「安政以後には夷女しか居なかった小樽」の浜小鳥…何故夷女しか居ない?
③随分あちこちの場所に広がった
④隠語でバレぬ様に隠した、つまり非合法が蔓延。
⑤バレたら、公設売春宿へ送られる。
⑥幕末には、吉原のノウハウが入れられた。
⑦異人相手の施設もあり。

こんな所か…
これらはそれなりの胴元や用心棒がいたのだろう。歓楽街の治安維持には付き物だし、簡易治外法権になるのは当然。
それなりのシステムを組み、後には吉原の真似を。

基本的に幕末の遊郭は、それ以外の場所での「隠れ稼業」は禁じているので、それなりの人々とそれなりの掟があった事は想像に優しい。
まぁ、「表」にしても「裏」にしても、それなりの人々がネットワークを駆使し、掟の中で「稼業」を営んでいました…と。

弾左衛門」が、どんな存在か?
あはは…ググって下さい。
書けません。


参考文献:
「新北海道史 第二巻通説一」北海道 昭和四十五年三月二十日