「浦田七厘」「大館へっつい」の時代背景を「地方史研究」で追う…生きていた証、続報18

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/20/192432
この「竈」探索もアウトラインはみえてきたのだが…
「浦田七厘」と「大館へっつい」の時代背景を追うべく二週に渡り、大館と北秋田を飛び回り、博物館,公民館,図書館らの協力を仰ぎ、探ってみた。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/08/18/110138
直接はここからの続報になる。

「浦田七厘」…
まずはスタートライン。
「このように、手数を煩わして出来上がった七厘は、主としてその地域の希望者に売り渡したようであるが、遠い所の取引先としては北秋田郡比内地区の扇田と云う所があったと聞いておる。」

「浦田七厘 濾過助剤」奥田安太郎 昭和六十二年四月二十五日 より引用…

浦田部落は貧しいが、旅人から作り方を習い七厘を作り始め、それを比内扇田で売った。
それがバカ売れし、現金収入を得た。
但し、それが何時、誰から始められたのかは謎。
ならば…
①浦田は何時からあるの?
「寄延沢は、「享保郡邑記」には「貞享元年に発る時民家五軒。今はわずか一軒」と出ているが、現在は本村に移転し住家はない。」
(奥付け無し)
との、森吉町郷土史のコピーを入手できた。
「亭保郡邑記」は江戸期に書かれた久保田藩内の各村々を記した古書。
これだと寄延沢(浦田の珪藻土が取れる地区)の開村が貞享元年→1684年となる訳だ。
勿論、それ以前は浦田の本町内に住み、寄延沢へ珪藻土を採りに行った可能性もある。
ただ、量産による増加可能になったのは、1684年以降となる訳だ。ならば、最も遠くの顧客はどうか?

②売った先の扇田で開催された市の起源は?
扇田は、「郡邑記による。発生不明」「舟付場 市があつて~後略」
比内町史」比内町史編纂委員会 昭和三十九年十二月 より引用…
先の「亭保郡邑記」で既に起源不明。
確かに扇田には「市神社」があるが、これも場所を村内の新館野→大町へ移されたとある。
そこで別、「比内の歴史」を確認…
亭保郡邑記では、〇が付く日で三回/月開催とある。
実は近隣の十二所では、三回の市が開催される様になったのが延宝七年(1679)となっており、久保田藩の駅場制の拡大と合致している。硬い所はここになる。
が、古い「扇田郷土誌」では元々市は6回開かれていた伝承があると。
これが仮に、市神社の移転に伴うとすれば、新館野では6回…恐らくこれは、中世の浅利氏の「新館」の城下町なのだろう。こうなると、1500年代へ遡る。

故に、ここまでを纏めると、

1, 1680年頃に量産し、大規模になった市で売り始めた…

これが、正確に追えるライン。
もし、それ以前に浦田本町で作り始めたなら、

2, 浅利氏新館城下町の市で売り始めた…

この二点が恐らく成り立って来るだろう。
現状、浅利氏時代の古書で整合不能なので、ここいらが限界か。
つまり、確認出来るのは江戸初期になってくる。
古い方の記録は?
実は、扇田は最低、戊辰戦争でほぼ壊滅するまでに南部藩勢に焼き尽くされている。
浅利氏時代の状況は、なかなか資料が無いのが実状。
一応、1468年の年季がある棺が二ッ井の梅林寺境内から出土し、「羽州扇田住浅利勘兵衛則章」の名前が併記されているとか。
但し、浅利氏が秋田に入るのは甲斐からで、直接畿内文化と直結しないので、扇田→浦田と伝承するのも考え難い。
なかなか厳しい…


では、「大館へっつい」は?
現状は?
石切場に関する資料がない。この石で観音様を作ったのは、明治二十一年であり、始めて石を掘り出したのは、安永年間で今から約二百年である。当時は城壁とか土蔵の土台石として産したが、その後炉イロリ、ヒツー、ケシガメ、と火に関係あるものが多く、日常にかゝせない石であった。」
「しかし軽井沢では、墓石がほとんどこの石で作られて居り、作った時の年代も書かれているが、古いのは字も読めないほと変形して居り、むずかしいが話に依ると、三百年も早いと言う人も居る。」

「軽井沢ものがたり」 佐々木繁雄 昭和六十三年九月十五日 より引用…

安永年間とは、1772~1782年の事。
軽井沢石切伝承は、江戸中期迄は確認出来る様だ。だが、ここにも墓石が風化で読めない程になる物があるので解らないと言う。
恐らく、「秋田県史 民俗工芸編」を編纂した奈良修介氏が「大館へっつい」は四百年遡るとしたのは、この辺の内容からなのだろう。

ここで…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/29/121957
二ツ井清原氏の初代重光公は、1558年に二ツ井に辿り着いたと言う。この清原氏の墓石は凝灰岩で酷く風化していると言う。
大館~二ツ井はこの凝灰岩層が露頭していており、一帯の古い墓石と一致する。最低、墓石だけ見ても戦国期迄現物的には遡る事が出来る訳だ。

更に…
先の項に書いた様に、秋田で二番目に古い板碑は北秋田にある。これは風化を考えたら凝灰岩ではないだろう。だが、少なくとも石工集団が定着しないなりに来ていた可能性はある。そして、大館には現存する板碑は一枚しか残っていない。むしろ、大館より二ツ井の石切の方が早いのか?
この一帯は、室町~戦国では安東~浅利~南部が抗争しており、館跡が数多い。戦火で伝承が途切れ途切れになっているのも痛い。
但し、浅利氏にしても二ツ井清原氏にしても、畿内の「へっつい」とは直結はしない。
彼らが入部する前から根付いていなければ、この事と合致しない。ましてや「へっつい」は陸奥,津軽には見付けられていない。
以上の通り。


現状迄を纏めると…

一・ 「浦田七厘」も「大館へっつい」も断言出来るのは江戸期である。

二・墓石等状況証拠としては、室町~戦国期迄遡る事が出来そうだ。

以上の通り。
これを考えると、男鹿~南秋の石工集団は遥かに古く、硬い石を平気で扱う。
ここから分派し、米代川を登ったと考えるのが妥当性が高い。
軽井沢より、二ツ井の石切伝承が古ければ、この仮説は成り立ってくる。

実は、「浦田七厘」の他に、能代にも七厘はあったそうだが、秋田県史編纂以前に技術断絶していたと奈良修介氏は県史に書いている。ここがどうか?になってくるのか…

だが、どうだろう?
これが地方史研究の威力だ。