https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/22/042632
直接の関連項はこれになるか?
今まで余市については、陶磁器遺物による武将の存在を示唆…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/06/20/054529
そして文字や識字率の存在を示唆…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/09/201054
さてでは、こんなのは如何だろう?
「P-41(筆者註:遺構No.)~中略~1999年の発掘調査において南西側約1/2が確認されている。」
「壙底には扁平な角礫が敷き詰められている(第57図)。」
「角礫が配置された後に墓壙の周辺部が灰白色砂によって埋められ、長さ0.4m、幅0.2mほどのクリの角材を方形に組み合わせた約3m四方の木枠がその上に配置される。木枠に沿って角礫が配置され(55図)、その内側に遺体と太刀・刀子・青磁椀や漆器・骨角器等の副葬品(第58~67図)が配置されている。遺体と副葬品は配置後に焼成されていると思われ、焼成後には墓壙全体を暗褐色砂等で埋めている。」
「墓壙はマウンド状を呈していた可能性があるが判然としない。」
「木枠内には頭蓋骨片が2ヶ所に見られ、その周辺から他の部位と思われる人骨片が多量に検出されていることから二体以上の合葬と考えられる(第56図)。」
「青磁椀などから14世紀に属する火葬墓と思われ、伊達市オヤコツ遺跡より検出された2基の方形配石墓に形態や伴出遺物が類似しており、関連性が窺える。」
「以上の様に要点のみを記してきたが、大川遺跡は縄文時代晩期前半から墓域として設定されていたらしく、続縄文時代まで継続されている。墓壙の形態、副葬品、遺体の頭位方向などに相違がみられ、変遷を知る上で重要である。」
「さて、余市の名が最初に文献として現れるのは松前藩の歴史書『新羅之記録』(正保三年・1646)であり、15世紀後半には松前以東は鵡川、西は余市まで和人が居住していたように書かれており、大川遺跡出土の中世墓と遺物をどのように理解すべか今後の課題と言える。」
「大川遺跡発掘調査報告書(2000・2001年度)大川橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」 余市町教育委員会 平成14年3月29日 より引用…
今度は火葬墓跡である。
流石に自然崇拝系では火葬の話は聞かない。
余市町教育委員会も、新羅之記録にある本州縁と思われる人々の存在に触れずにはいられなかったと見える。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/053050
我々が確認出来たのは「松前旧事期」だったが、「新羅之記録」にも有りか。
それはそうだ。
火葬となれば仏教徒との関連を考えるのが合理的。
所謂和人であろうと考えるのが妥当だろう。
1300年代と言えば、関係しそうなのは、十三湊安東氏が隆盛してくる時期。
で、伊達市にもあると…
この遺構がある付近(迂回路地点)には、その前とその後には、火葬墓跡は無い。
この時代が特異性をもっている?
我々的には、それはそうとも言えなくなっている。
副葬からは、骨角器もほとんどが鏃(やじり)だが出土している。中には骨角器の物とは別に「鉄鏃+骨角器」の物もあり。
しかし、骨角器の鏃でアイノ文化と直結するとの論は最早成り立たない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/28/194019
南部の聖寿寺館遺跡の出土の骨角器は工房跡から。
つまりここに限らず、中世に量産化され市中に出回っていた可能性が出てくる。
更に…
仮にこの時代女性墓があったとしてもこの通り。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/04/192707
仮にタマサイと推定されていても、それは同時に「数珠」の可能性も出てくる訳だ。
当然の如く数珠を作るなら、手に入りやすい材質の石,ガラス玉らを使うであろうからだ。
余市は、
縄文→続縄文→擦文→中世…と、ダイレクトに移行している。
しかもここでは、古文とそれが合致している訳だ。
中世以降もここに居たのは、アイノ文化を持った人々なのか?
甚だ疑問が深まる、と言うか、少なくとも中世に居たのは、本州縁の人々と言えるのでは?
何故か…
北海道では、そう言う事を言う事が憚られるらしい。
なら、そんな慣例は物証を集めて破壊していこうではないか…少しずつ且つ確実に。
参考文献:
「大川遺跡発掘調査報告書(2000・2001年度)大川橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」 余市町教育委員会 平成14年3月29日