それは本当に「チセ」なのか?…我々が疑問を持つ理由と提案

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/13/062742

『チセ』への関係項である。
拘るのも、それが「生きていた証」だから。
そもそも、井戸や竈を探し始めた理由は、古代~中世の住居遺構が、アイノ文化を持つ人々まで遡っていけるか疑問だったから。
本格的な調査研究は明治期から。
現存する「チセ」は、本当にアイノ文化を持っていた人々のものなので、それは確実。
ただ、それと遺構を直結させて良いのか?だ。
そんな検討をしている時、あるフォロワーさんから提供戴いたスクリーンショットがこれ。
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チセである……ハズがない。
馬に乗っている方がいる。これ、開拓をしている方の住居なのだ。
開拓者の居住と言えば「屯田兵」らの住居をイメージする。茅葺き住居なんかイメージしない。

と、言う訳で、「明治大正期北海道写真集」で、明治の記録写真を確認してみた。
角田村湯地農場牛舎、村尾亀蔵氏住宅か、三宅常吉氏宅…茅葺き住居はある。
勿論「チセ」もある。
中には、茅葺き住居と、開拓が成功し建てたであろう和式住居が並んで写るものまである。
開拓使系でも、記録を見ると仮住居は、茅葺き小屋だったりする。

纏めてみよう。
①入植者が全て「屯田兵住居」の様な板葺き住居に住んでいた訳ではない。
②特に個人入植した人々は茅葺き住居を仮に使っていた様だ。
③それは外観が似通う為、一目では「チセ」と特定出来ない。
④柱や屋根の構造が残らぬ中世~江戸初期の遺構なら尚更、どうやってアイノ文化を持つ人々と所謂和人のご先祖の遺構だと分別困難になる。
⑤そして、古書らでもそれらの人々は、基本的には区別せず「蝦夷」と表記されて区別されてはいない。江戸後期の「アイノ」以外は。
以上である。


ところで…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/05/191915
中世に本州縁の人々が居た痕跡と考えられる。
更に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331
「片貝家ノ下遺跡」の様に埋没家屋跡でも出土し構造が判明したならいざ知らず、明治期位の実績からでは、中世~江戸初期位の住居跡までは遡れない、と言う事。
この時代の住居跡は「蝦夷」と記載された人々のもの。アイノ文化を持つとは限らないし、出土遺物からも断定は出来ないと言う事。

我々は言っている…
蝦夷=アイノ…ではない。
蝦夷にアイノは含まれる。
仮にアイノがいたとしても、本州縁の人々もいた…と言う事。
全てをアイノの遺構としてはいけない。
断定出来る程の研究がされていない…だ。


我々は何も全てをリセットしろとは言わない。
我々が提案するのは、各教育委員会による遺物らの再検証と、それに基づく地方自治体史の見直しと改訂。
と、言う事。

それを民意で実現したら良いのではないか…
である。



参考文献:

「明治大正期北海道写真集」 北海道大学附属図書館 1992年3月30日