この時点での公式見解⑰…新北海道史の内容を組み立て直してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/09/184042
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

さて、おかしな点を指摘した。
だが、これで終わっては片手落ちだろう、「代案」がなければ。
なら、この「新北海道史」の記述のみで組み立て直してみれば良い。
前項で、下記を記載した。

近世アイノと古代迄に住んで居た人々の間に、歴史的に、又、考古学上の深い関連性が見当たらないので「解らない」とした上で、「諏訪大明神画詞」の日ノ本,唐人と千島,樺太の近似点を根拠に「繋がっていたであろう」としている点。

歴史的に関連性が無いのだから、無いものとして組み立てたら良いだけ。
そもそも、何故無いものを無理に関連性付ける必要があるのだ?
理由を聞きたい。
そしてこの場合、「諏訪大明神画詞」にある記載は、その時代に外部から入ってきた異文化集団の痕跡に変わってくる。
何故なら、千島,樺太経由で大陸からの影響をわざわざ示唆しているのだから。

なので、こうなる。


基本の流れ…………本州…………北方

縄文文化

縄文文化

擦文文化………………←①…………←②
↓ …………………………←③
安東統治………………←④…………←⑤

松前氏統治……………←⑥

幕府直轄統治…………………………←⑦

明治………………………←⑧…………←⑨


①朝廷及びエミシ(陸奥側)
②モヨロ貝塚等アシハセの人々
③安倍,清原,奥州藤原の人々
④安東や南部の人々
⑤元に追われた人々
⑥金堀らに潜んだバテレン,キリシタン
(以後、本州からはヤン衆,幕府政策ら継続)
⑦ロシアに追われた人々
開拓使や各藩移住者
⑨千島,樺太からの移住者

ざっと大きな部分では、こんなものだろう。
勿論、東北沿岸でお互い行き来している分は書くまでもない。

移住者はその当時の土豪に使役され、徐々に同化を繰り返し、飲み込まれる。
勿論、圧倒的人数がある方が、文化的には色濃く残るだろう。
ただ、土豪と本州側のとで行き来あらば、古代~中世でも、物流が止まる事は無いので普通に鉄器や陶磁器,漆器らが手に入り、わざわざ作る必要なぞない。
故に、ミッシングリンクなぞ起こすハズも無い。
①,②に関しては、古墳の発掘や日本書記らの「阿倍比羅夫」の記述で裏付けられる、
何せ、アシハセには、味方と敵が居る事までわざわざ書いてあるのだから。

中世でも、朝廷に付いた擦文文化人の末裔なら、普通に東北諸将と手を組んだろう。
元から繋がっているので言語らも困らないであろうし、中世の武具の存在も説明可能だ。

後発の文化程、形を色濃く残すだろう。
と、なれば、アイノ文化の象徴らが江戸期位迄しか遡れないのも符号する。

何の不都合があるのだ?
ミッシングリンクも無く、全く普通に繋がるのだが。
仮に不都合があると言うなら…
A・蝦夷=アイノではない。時代で混じり会う
B・近世アイノは、時代背景により後発になる
これだけであろう。

ただ、これは…
続縄文から見たら、①,②は後発。
安東氏から見たら、①~③は先発、⑥,⑦は後発。
幕府直轄の人々から見たら、⑧,⑨は後発…となるだけの事。
何故アイノ系の説明で、「明治政府がー…」となるのか?一目瞭然だろう。
少なくとも、⑦から見たら⑧,⑨は後発なので、⑧,⑨に対しては「先住してますよ」と言える。
現状、疑問視される事まで説明が可能なのだが。

なら、何故、これらを唱える人が居ないのか…
学説や政策が間違いでしたと認める事が出来ますか?
湯水の如く使った血税やらの責任は誰に追わせますか?

誰も間違いなぞ認めるハズも、説明を取ろうとする者も居るハズなぞ無い。
活動家紛いが入り込んで、分断工作やろうが、蓋して終わり。
現状はこんなもんでしょうか?


上記は、あくまでも「新北海道史」の一部解釈を変える事で、組み立て直しす事は可能だと言う、一つの事例に過ぎない。
考古学的物証が不足、歴史的古文も不足している。研究者に頑張って戴くしかない。

何より、道民の皆さんが地域史をどう捉え、「何を、どうやって、どうしたいのか?」…
これが、最も大きな問題なのでは?
他人任せで良い話ではなかろう…
と、考ええる次第。