なら、対岸の「入舟遺跡」はどうか?…お宝思想から古代北海道を考察

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関連項はこのへんか?。
余市シリーズと化してきたが…
今迄注目してきた「大川遺跡」の余市川の全く対岸にも、「入舟遺跡」がある。
「フルカチャシ」があったとされる「天内山遺跡」の丁度麓にもなる。
当然気になるところ。
これも発掘調査報告書が入手出来たので、確認してみる。


まとめの章より…

「大川遺跡では縄文時代晩期から続縄文時代の墓坑群が主体となっていたが、対岸の入舟遺跡はまったく様相が異なり生業をしめす遺跡である事が判明した。地形的には川の蛇行の背の部分にあたり土地が削られる場所となっていて、護岸が作られた理由も理解できるところである。」

「遺跡はⅣ層においては礫層で無遺物層である。」

「Ⅲ層下部から遺物の出土がある。縄文時代の中期後半から後期初頭にかけての遺物が多く、天神山式、北筒式、余市式土器などで遺構は確認出来なかった。」

「Ⅲ層から二層下部にかけては続縄文時代恵山 式、後北式(江別式)土器が見られる。恵山式の遺構として貝塚、竪穴住居跡があり、貝塚は当時の生業を知る上で重要である。」
「土器については恵山Ⅱ式に相当し、頸部がやや長いこととくびれが少ないことから後半に属すると考えられる。」
貝塚に見られる墓坑は改葬といえるもので、対岸の大川遺跡の恵山文化の墓坑群のありかたと比較すると異質である。」

「Ⅱ層は続縄文時代後期後半の北大式~擦文時代にかけての文化層及び近世・近代のものである。」
「遺構として擦文時代前半の平行沈線を有する土器で住居の形態は方形で竈をもつものが一軒のみ確認された。対岸の大川遺跡では多数の擦文時代の住居がみられることから、両岸に擦文時代の集落が形成されていたことが推測される。」

「近世・近代にかけては貝塚、石組炉、護岸の石垣などがある。貝塚は川岸に捨てられたもので伊万里焼(有田)の酒徳利、東北諸窯の焼酎徳利、漆器(筆者註:シントコ)、耳飾り、コンプラ瓶などが見られる。アイヌ民族が使用したものとしてシントコ(行器)と呼んでいる漆器の脚部と金具が出土している。またニンカリ(耳飾り)と呼ぶガラス玉を付したものも出土している。通常はシントコを含めた漆器については家屋の奥に他からもとして並べて、大切に保管されているものであるが、この地ではその価値が早くから失われたのだろうか。」

「この貝塚を残した人々は和人なのかアイヌ民族なのかは常に考える問題であり、当地が早くから、アイヌ民族が和人の生活様式を取り入れた可能性もある。それは、中世以降の北海道史を見る場合には必要な視点といえるであろう。この川の上流約1kmの左岸の舌状台地にはかつてフルカチャシと呼ばれた天内山遺跡がある。ここからは続縄文時代から擦文時代にかけての墓坑群とともに近世の貝塚が発見されており、陶磁器や金属器が出土している。このチャシは寛文9年(1669)のシャクシャインの戦いの砦と推定されているものであり、大川・入舟遺跡との関連も今後追及してみることも必要である。」

「以上のようにこの地は縄文、続縄文、擦文時代の後に空白があるものの近世・近代になって再び土地利用が行われている。」

「現在はコンクリートブロックの護岸であるが、その昔は大勢の人々が汗を流しながら石積みをしたことだろう。それは川の蛇行による浸食と土地利用者との悪戦苦闘の歴史を物語るものであり、余市町の中央を流れる大川が交通や生活の場において太古から人々の生活の上で重要であった証拠とも言えるだろう。」


「入舟遺跡発掘調査報告書(1998・1999年度) 余市川改修事業および余市橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」 余市町教育委員会 平成12年3月25日 より引用…



さて、大川遺跡、天内山遺跡との関連性も示唆させている。
ただ、大川遺跡にある中世遺構が、何故か入舟遺跡には無い。この辺は、発掘が全体の一部分である事も考えられる。
何せ、蛇行を繰り返している為、護岸遺構があり、その時代の状況で場所がズレるのはあり得る。

気持ち悪いのが、直ぐ「アイヌ民族がー」とくるのが全般的な北海道の発掘調査報告書の特徴。
包含層があるにせよ、擦文と近世は確実に分かれる。ましてやこの入舟遺跡には中世遺構がなく、丸っと空白、その上で文化も違う。

何故考察段階で、「後に入ってきた」…この疑いを全く持っていないのかが甚だ疑問なのだ。
我々の様な素人集団でも当然気付く。
まるで「アイヌ民族信奉症候群」と見える。
むしろ、「居て貰わなければ困る」と、言いたいのかな?と疑わざる終えない。
まぁ対岸の大川には「文字」がある。
その上で、擦文集落が両岸にあったのを認めているから幾分マシなのか?
これ…
ここに有珠の火山灰層があるなら、江戸期の時代背景がはっきりするので、面白いのだが、残念ながら無い。
因みに…
我々が眼を付ける「茂入山」には全く触れらてはいない。やはり「有ってはならぬ物」なのか?
まぁ、運上屋やら鰊漁の影響で、随分掻き回されてる印象はある。
上流の遺跡含め、包括的に見ると面白いだろう…勿論、アイノなんて文言を入れず、時代時代に生きてきた証を見る意味で。


ところで…
随分、シントコ(行器)が廃棄されたのがショックだったのか?
壊れりゃそりゃ廃棄もするだろう。
何せ、我々的には「首桶」以外の何物でもないし、こんな事も確認出来ている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/123150
買った物ならいざ知らず、集団種痘の「ご褒美」なら、有り難みもひとしおだろう。
で、行器の話題の中に、さらりとニンカリのガラス玉について書いてある。
余程ショックだったんだろう。
しかしズバリ書けば、ガラス玉に拘る…
そこがNGなのだ。

ガラス玉は、戦国期なら一乗谷らで作られ、江戸期なら一般流通し市中で売っており、アイノへの交易品として送られている。
まして、ガラス玉を価値あるお宝と解釈すると、とんでもない事が起こる。
何故なら、東洋思想のお宝は玉(ぎょく),翡翠琥珀ら天然石であり、縄文からの流れではなくなってしまう。
擦文文化人は、翡翠が入手困難だと水晶を使った。未だに水晶やアメジストなら、鉱山跡に近いとこなら出土し手に入れられるのだ。
勿論、加工もしていた。
でも、わざわざそれらを使わずガラス玉…最早Chinaやらの中華思想ですらない。
つまり、絶対直結なんぞしないと言う事になる。
元々古代日本に於いては黄金にすら興味がない。黄金の需要は「仏法」の影響だろう。

ガラス玉を多様する事自体が、古代日本文化と直結しない理由になる。
翡翠琥珀、アオトラ石らを大事にした縄文,続縄文の人々とは、相容れない。
自然崇拝なら、天然石を選ぶだろう。
それは神が住む山から、その力を携え産出するパワーストーンだから。

お宝に対する思想が根本的に違う。
辻褄の合わぬ事を無理やり繋げる為に、北方に回帰させようとした結果であろう。
でも、それでは縄文~続縄文~擦文と一連繋がる北海道史のメインロードから外れてしまうのだ。
因みに…
オホーツク文化の一つ、「目梨泊遺跡」でも蕨手刀が出土しているのをお忘れなく。
重文なので隠し様ない。


敢えてここに記しておく。
SNS上で会話した限り、道民の多くには「アイヌ民族信奉症候群」の要素がある。
そう感じるのは、全く関係のない本州人である筆者だけでなく、我々グループの話し合いでもそんな指摘は出る。
道民であるメンバーが、他の道民を見てそう感じる事すらあると言う。
毎度書くが、肯定的でも否定的でも、何でもかんでも「アイノ」ばかり出てくる人がいる。
これ…どうよ?
近世アイノは居たのは事実。
だが、同じように北海道に渡った人々も居る。元々居たであろう人々もだ。
むしろもっと、そんな人々の文化も学び、発信すべきなのではないのか?
多くの道民の祖先はむしろそんな人々だ。
無下にすべきではない。
その痕跡を集め、「等しく」大事に保管,記録すべきだと…我々は考える。
自分の先祖を守れるのは、その子孫しか居ないのだから。



参考文献:
「入舟遺跡発掘調査報告書(1998・1999年度) 余市川改修事業および余市橋線街路事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書」 余市町教育委員会 平成12年3月25日