時系列上の矛盾…二風谷の発掘調査報告書を確認してみる

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/28/193339

関連項はこれか。
我々がホットスポットと考える「余市」。
だが、そこだけではなく、やはり本命にも斬り込まねばなるまい。
と、言う訳で…いきなり「ド本命」、二風谷の遺跡発掘調査報告書を入手した。
二風谷こそ「平取アイノ」が居たとされる付近。
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」…筆者はこれを古書で手に入れた。
まずは前提、どんな遺跡なのか?

この遺跡は二風谷小学校近く。
沙流川側に「ポロモイチャシ」があり、南のユオイ沢側の「ユオイチャシ」とで「二風谷遺跡」を挟む配置になっている。
生活区であろう「二風谷遺跡」との間にそれぞれ空堀が掘られるが、同じ舌状台帳上に並んだ構造となっている。

地層的には…
Ⅰ層…表土
Ⅱ層…有珠山,樽前山らの火山灰
Ⅲ層…擦文~中世~近世
Ⅳ層…縄文の遺跡遺物
となり、Ⅲ層は、水田作りの為に撹乱層になっている。
そしてⅢ層下部には、苫小牧火山灰層が入る。これは、西暦900年代の大規模火山噴火の火山灰で、
一つが915年の「十和田大噴火」
一つが946年の「白頭山大噴火」…
約5cm以下の火山灰層がその年代の前後を分ける境界線となる。この片は秋田ほ地層に十和田火山灰層があるのに近い。
ざっと読んだり、付属事項をするとこの様な特徴を持つとの事。

概略としては…
・全体としては、水田造成により、中央部が破壊と撹乱されてはいる。生活痕としてあちこちに獣骨片が確認される。
・「ユオイチャシ」としては、南東、つまり陸側には二重の柵跡が作られており、侵入者を防ぐ構造。染付椀や毛抜型太刀,ガラス玉らが出土。空堀はW型。
・「ポロモイチャシ」としては、二連の弧状空堀とそれぞれに建物跡があり、チャシ建築に先行される思われる住居跡1。鉄鍋や漆器片、刀,刀子,鎌,ノミ,鉈,小札ら鉄器や錘石ら石器が出土。
二風谷遺跡としては、撹乱されたⅢ層では擦文土器片、擦文の竪穴住居2棟、中~近世の打込み柱建物跡11棟、周溝墓2基や伴う金属器,漆器,土器らが。更にⅣ層から縄文~続縄文の遺構遺物が多数検出されている。
それぞれ非常に貴重なものであろう。


さて、筆者が時系列上で「あれ?」と思った事を二点上げてみたい。

一点目…
「ⅢH-7(図60、図版46) この住居跡は竪穴住居跡である。ユオイチャシ跡の外壕から10m距離をおいた、ユオイの沢に面する河岸段丘の縁辺部に位置する。」
「この住居跡のくぼみを利用して2号墓が作られており、床面の一部をこわされている。」
「この住居跡からまったく遺物が伴出しておらず、その時期を確定することは困難であるが、2号墓東側の覆土上部(Ⅲ層下位)に苫小牧火山灰と見られる白色火山灰が薄く堆積していることから、10世紀以前のものとみられる。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」 財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

Ⅳ章ユオイチャシ跡の記載の記載である。
この竪穴住居には遺物は無かったが、苫小牧火山灰層が覆土にあり、10世紀より前であろう事を指摘している。
だが…

「ⅢH-7・12は竪穴状の建物跡である。」
「ⅢH-7は、その埋まる過程で2号墓が占地しているため、それよりは古いことが認識できる。2号墓は埋まり方や副葬品等から、二風谷遺跡の近世遺構の中では最も古い時期のものと考えられ、そうなるとⅢH-7は、中世段階の竪穴、あるいは擦文終末期の所産と言えるかも知れない。」
「遺物が出土していないため断定できないが、柱が打込み柱らしいことは確かである。これら竪穴状の建物が平地の建物への移行形態であるかどうかは、今後の課題である。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」 財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

これが、Ⅶ章まとめでの記載。
おいおい…まとめの章で苫小牧火山灰層を無視するなと言いたい。
10世紀なら、まだ秋田城は機能停止直前、在地豪族が台頭してきた辺り。
擦文文化人はまだ遺跡を絶賛拡大中で、オホーツク文化を同化させている最中。
まとめの章で、何故いきなり時代を繰り下げるのか?。
素人だって火山灰層前後で年代特定出来る位物理的に理解出来るわ。


二点目…

「昭和60年度に残された、ユオイチャシ跡の東側縁辺部における調査区からは、ほぼその調査区の全域に及ぶ、柵列跡が検出された。ここは、水田造成に際しても削平を免れ、小高く残された狭長な地区だが、途中、M-8~9区8m程の部分は、ユオイ沢に堰が設けられ、水田灌漑用の溜池がつくられた際、土砂が削られ、重機の通路にされて破壊されていた。」
「柵列付近では、一帯の第Ⅱ層Ta-b火山灰を除去し、第Ⅲ層真黒色の上面を出した段階で、シカを主体とする獣骨片の集中的な分布が注意された。」
アイヌ民家(チセ)の建設においては、ホタテやホッキの貝殻を利用して柱穴を掘ったと言われるが(萱野1976)、柵列の柱穴もそれと同様に、予め掘り込んだ穴に柱を埋けるという方法がとられたものと考える。」
「獣骨の分布は明らかに柵列跡に集中して重なっており、この一致は単なる偶然とは思われない。~中略~他とはやや異なった特殊性が認められ、柵列の存在と無縁には説明する事が困難と思われた。」
「柵列付近では、解体ばかりでなく、骨角器作製へ向けての第一次的な加工作業も、実施された事が窺われる。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

途中途中には柵列跡の詳細が書かれている。
さて、何故にホタテやホッキで柱穴を掘ったと?
先述通り、続いている二風谷遺跡では鉄の鍬先や鎌,ノミ,斧も出土しているのだが。
これらは、撹乱されたⅢ層包含層の遺物として後に説明してはいる。チャシ建築に使用した「可能性」を指摘せず、そこにいくか?
実はここで決定的なのは、「重要な事」に触れていない事だと考える。
柵列跡の表面付近に獣骨片は散乱していた。
柵列の穴の数は64検出。
で、この穴の内の34には、穴の中に獣骨片が入り込んでいる。
この現象を起こすには、穴から柵の柱を引き抜いた後に獣骨片をばら蒔かなければならないと言う事。
つまり、時系列的には、柵列廃絶後に獣骨を廃棄した事になる。現に本文では触れてはいないが、Ⅱ層火山灰が入り込んだ穴も幾つかあり、それは図20らに記載されている。
空洞になった後、又は空洞上面に薄く黒色土が乗った段階で獣骨片をばら蒔き、その後火山灰が降らなければこの状態は再現不能だろう。
柱がまだ有ったのなら獣骨片が穴の中に入り込むハズがない。つまり、柵列と獣骨片には関係があろうハズがない。
如何だろうか?
余程、シカ送りとくっつけたいんだろな。
事実であろう「現象」から導きだせる事は…
ユオイチャシ廃絶→
シカを好んで食べる人々が生活した→
有珠山噴火ら火山活動…
こんな順番になる。
つまり、チャシを作った人々と獣を食べた人々が同一とは限らない…と言う事だ。
何せチャシの廃絶が先なのだから。


これだから、筆者は著書ではなく、発掘調査報告書を読む事にしている。
まとめ「だけ」読んだり、何らかの著書「だけ」ではこんな事は全く触れず、柵列と獣骨片は関係あるものと断定して書かれる「可能性」があるからだ。
筆者は疑り深い。わざわざ図書館行ったり、古書で「発掘調査報告書」を買うにはそれなりの理由があるのです。
現場に行く、又は現場の状況を知る事は大事なのですよ。


敢えて象徴的な引用を付記しておこう。
「Ⅲ層、特に中近世の遺構・遺物では、集落をなすと思われる建物跡や、近世アイヌ墓、多種多様の金属製品・骨角器・漆器がこの遺跡を代表するものである。当遺跡は、ユオイ・ポロモイの両チャシとは有機的な関係をもつ。その意においてチャシとその周辺を同時に調査し得たことは、大きな成果である。チャシと二風谷遺跡の遺構・遺物をどのように編年し、歴史を復元構築して、東北アジアの中近世史の中に位置付けるかは、報告の重大な課題であった。今回は、ほんのさわりだけの報告となったが、それだけ多くの問題を含んでいるということであり、今後も検討を続けなければならない。Ⅳ層の遺物も、縄文時代の全期を網羅するという、重要かつ貴重な資料であることは、一点の疑いもない。これらについても、今後の検討が必要不可欠である。」

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日 より引用…

概ね同意ではあるが、東北アジアの話よりまずは北海道史をどうにかしては如何か?
撹乱された状態で、Ⅲ層遺物の時系列的配列が出来ましたか?
何より、上記二点だけでも、時系列配置にミスがあるのでは?
そんなにアイノとくっつけたいのか?と問いたい。
大体、出土遺物に完全にアイノ文化を示す物が…あるのか?
資料館展示でもたまに聞く。時代背景を無視表示しない展示があると。
これが手口の一つ。

つまり…
「道民は歴史なぞ興味なく、調べも指摘もしないから大丈夫」こんな前提がなければ、ここまでは出来ないと我々には見えますが…バカにされてますよ、多分。


参考文献:
「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日