空白?の約120年…ロシア進出により北方から人が入り得る根拠

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/11/185110

これらの項で、「江戸期に北方から入って来た人々」を示唆している。
黒船ばかりが着目される幕末情勢だが、こんな事も絡めれば、割とその示唆もご理解戴けると思う。

wikiからの引用。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%AF

「シベリア内陸のレナ川水系のヤクーツクの砦(1632年建設)から太平洋側へロシア人遠征者たちが行くには、川舟でレナ川支流のマヤ川上流を遡ってジュグジュル山脈を越え、オホータ川を下りオホーツクの港に着く経路が一般的な経路であったため、1643年にセミョーン・シェルコヴニコフ(Семёна Шелковникова)率いるコサックの越冬地となった。1649年にはオホーツクに砦が建設され、極東地域で太平洋に面したロシア最初の入植地となった。
1718年にはクジマ・ソコロフ(Кузьма Соколов)がオホーツク海最初のロシア船を建造しカムチャツカ半島へ渡った。1731年頃までにはオホーツクがロシアの太平洋側の第一の港となっていた。歴史上様々な探検家がこの町を通った。
アラスカなどへ渡りベーリング海峡を発見したヴィトゥス・ベーリングの2度の探検航海の拠点となったことで知られている。その当時の町長はポルトガルユダヤ人アントン・デ・ヴィエイラ(ロシア語版)だった。またアラスカからの毛皮や水産物の交易でも栄え、露米会社の拠点ともなった。
しかしペトロパブロフスク・カムチャツキーが極東の中心的な港として栄え始め、19世紀初頭にはオホーツクは極東の商業中心地の座を明け渡した。それでもなおしばらくはシベリア小艦隊(後の太平洋艦隊)の拠点であった。」

wiki 「オホーツク」より引用…

1643年…コサックの越冬地化
1649年…オホーツク砦が建設、入植地化
1731年…港として繁栄。当時の町長はポルトガルユダヤ人。

極東,アラスカへの探検と毛皮交易等で繁栄していた模様。
ユダヤ人…これで反応する方も居る様だが、ここはポルトガルに反応して欲しい。
我が国の情報を最も濃く持っていた国の一つ。
実際、オランダも盛んにウロウロしていた様だが。
こんな感じでロシアは大体1700年頃に、オホーツクへ進出し、拠点を持つに至っていた。


さて、この時の北海道は?
重ねてみよう(笑)

Ta-b火山灰が降灰したのは、1667年。
で、二風谷の状況は冒頭に掲載した通り。
1700年頃…
年代的には、ロシアのオホーツク進出とピタリ。
西廻り航路開拓と北前船就航も、大体この頃と思えばよいかと。


では、その後は?

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/22/224121
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/185939

最上徳内が北海道入りしたのは、初回が1785年…
菅江真澄が見た有珠善光寺は、三官寺前の降灰した時の姿、これが大体1790年頃。


https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/07/08/063333

この後に幕府直轄化され、東北諸藩にとって重荷の蝦夷地警護に…
降灰から歴史にガッツリ登場する迄、120年位後期間が空く。
サラッと書いてますが、1800年代のロシアの動向。もはや、サイレントインベージョンの痕跡。

北方では、狩猟を生業にしていたので、縄張りには拘っても、農地と違い土地に縛りつけられる事もない。
ロシアが嫌で逃げた人も居たであろうし、1800年以降なら「意図して入り込んだ者」も居るであろう。
冒頭項の⑦があり得る根拠はこれだ。

それだけか?と問う方も居るだろう。
つか、これだけで充分なのだ。
だって、わざわざ学者さん達は、北方の人々と本道アイノの共通項をガンガン掘り出してくれている。それがそのまま、北方から南下した痕跡となる。
我々が掘り下げる必要なぞ微塵もない。


空白の約120年でどんな風になったのか?これが解明のポイントの一つかも知れない。
大体、北方から南下したのが、何処かの時代一度だけだと言う考えなら、それ自体イカれている。

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/19/184154

こんな話も辻褄はあうのだ。


だからこそ、学者さん達は、このロシアの南下の話を絶対に絡めない訳だ。
と、こんな事を書くと、何でもかんでもロシアのせいにしたがる御仁もいるが…
ロシアの影響は、上記の通り、1700年代以降。時系列は崩れない。

だが、この我々の論ならむしろ、1700年代からだからこそ、空白の120年があるからこそ、あり得る…と、思いませんか?