時系列上の矛盾…札幌市丘珠「H317遺跡」に見える矛盾と火山灰の壁

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347

関連項はこちら。
二風谷の遺跡以外にも、発掘調査報告書の読み込みをしてみた。

実は、北海道のメンバーに協力依頼の様な話が出て相談された。
だが、場所柄特段調べてる訳でもない。
長い目で見れば、あちこち確認の必要有ろうかと思っていたが、そこはそれ。
道央の事と言うので直ぐ古書を発注。
どうやら問題そのものの火消しは終了した様だが、確認すべきだろう。
筆者としては「ひと悶着」有ったので釈然とはしないが、それはそれ。

と言う訳で、札幌丘珠の「H317遺跡」確認する事にする。
「モエレ公園」近くで、周辺には縄文~擦文遺跡が数多くある。
実は以前からメンバーの中には、「モエレ公園」の謂われが引っ掛かるとの声はあった。
ここは古くは豊平川伏籠川に繋がった沼らしく、周辺の低高地に遺跡が点在するらしいが、本州に住むメンバーには土地勘なぞまるっきり無い。
さて、では、「時系列上の矛盾」を指摘してみる。


発掘調査報告書では、必ず発掘箇所の地層がどの様に積み重ねられているか?これが記載される。
当然だ。考古学では、この地層の上下は時代変遷を表す指標。ひっくり返す事は出来ない。
本書でも、一章の調査の概要で、「第5節 層序」として詳細が記される。
37頁に「基本層徐土層注記表」が示される。概略は、

1層…耕作土(表土で現在の地層)
2層…2a~2p迄細分化、シルト,砂,粘土が重なり合い2p,2j,2pの上面に火山灰堆積
3層…a~c細分化、aが擦文遺跡層
4層…a~e細分化、4d上面に火山灰堆積
5層…a~c細分化
6層…6~6-3に分かれる
7層…続縄文の遺跡層
8層…

となり、随分シルト,粘土層が多く、川の氾濫の影響か?随分細かく積み重ねられているのが解る。
3層に擦文遺跡、7層に続縄文遺跡が眠っている。
事前調査で1,2層には遺物なく重機で削除して発掘した様だ。
それぞれの章に分けて遺跡の説明をしているが…
総括ではどうだろう?時代背景の解析部分を引用する。


「第Ⅰ群土器の主体となる第ⅠA群は、8世紀後半の土器群に後続し、おおむね9世紀代と考えられる札幌市K435遺跡出土第Ⅳ群土器にほぼ相当する特徴を持っている。杯類およひ共伴した須恵器の杯から、東北地方では、岩手紫波城跡出土土器群(盛岡市教育委員会 1981)と共通する点があり、上記の年代観と矛盾しない。」
「第ⅠB群土器は、宇田川編年(宇田川 1980)では、擦文時代中期前半に位置付けられるであろう。これらの土器群は、石狩低地地帯中央部の恵庭、千歳市域では、10世紀前半と考えられる降下火山灰(白頭山-苫小牧火山灰)を挟んで上下から出土している(大谷ほか 1981,1982)。」
「このことから、概略的な年代は、第ⅠA群土器は、9世紀初頭から9世紀末。第ⅠB群は、10世紀前半と考えられる。しかしながら、第ⅠAa群の一部は、K435遺跡出土第Ⅱ、Ⅲ群土器の特徴を強く引き継ぐ要素がみられることから、8世紀末葉まで遡る可能性がある。」

「札幌市文化財調査報告書46 H317遺跡」 札幌市教育委員会 平成7年3月31日 より引用…


解っただろうか?
それぞれ、土色土性でこれだけ特徴を出し細分化しているにも関わらず、総括では擦文…3層、7層…続縄文しか記載無し。
その上で遺跡の使用年代を、出土した擦文土器の編年指標のみで行っているのだ。
しかもその指標は、他の遺跡の白頭山-苫小牧火山灰らの状況から作られた事迄述べているのに、この遺跡の火山灰層に全く触れていない…あれ?

この遺跡に於いて、擦文~続縄文の間の火山灰層は4層dにある。
つまりこの遺跡では、ここが10世紀前半になるハズなのだが。
それより遡る事は無い。何故なら擦文遺跡のある3層aはそれより上にあるから。
他の遺跡の火山灰には注目して、何故対象遺跡において火山灰層を考慮しないのか?
…え…?
遺跡の下の3層b~4層c迄をすっ飛ばしている。
これが何年位のスパンを持つか?は知らんが、最低10世紀後半を下らねば辻褄が合わない。
SNS上の話では、極近辺の擦文遺跡から珠洲焼が出土しているなら尚更だ。
珠洲焼は12~15世紀に能登方面で作られた物で、稼働期間は産地で特定されており、動かしようがない。
更に
紫波城の須恵器と比較しても意味無し。何故ならその須恵器を真似て擦文土器を作る「可能性」があるし、なにより須恵器は一部出土場所が特定されており、分析すれば良いだけ。
この遺跡、10世紀以降とするのが妥当だと思うが…如何だろうか?
大体、各地層途中は砂,粘土やら泥炭がある。川が数度氾濫している跡だろう。
端からムリ筋。
氾濫,水没を繰り返しているなら、半魚人でもなければ継続的に住めるハズが無い。


さて、遺構,遺物…
擦文住居には、しっかり「竈」がある。
アイノには「竈」文化は無い。

3層包含層だが紡績車がある。
2層には全く人の痕跡は無い。
擦文遺跡が3層最上面なので、後の時代の物ではない。つまり、糸を紡ぐ技術があり、これも近世アイノとは相容れない。

擦文土器で、内面黒色処理…
土師器の影響だろう。

食性…
擦文…
竈では哺乳類:魚=6:4だが、屋外炉では9割魚(但し、検出数が少なく、明確かは不明)
続縄文…哺乳類:魚=1:8…
続縄文ではチョウザメなんかも食べてるので、より魚食性が強いと。
(不明があるので百%にはならない)

更に奇妙とされるのが、栽培型のヒエ。他には(この段階で)余市大川遺跡のみ。縄文型ではない。ここ、擦文初期で既にアワ,ヒエ,キビが揃っている!
その他アオイ科の謎の植物で、北海道に野生種無し…なんだろうか?
続縄文はクルミが多い模様。
いずれ雑食…考えられている様に、蝦夷シカらに変調した食性を、続縄文人や擦文人はしていない。これも近世アイノとは相容れない感じもする。

後、擦文遺跡にして、黒曜石や叩き石,磨き石がある事な奇妙と指摘はしているが、これがこの遺跡の特徴と言えば、これだけを持って続縄文~擦文と近世アイノを繋ぎ合わせるのはムリ筋だろう。



ざっと読んで見てこの通りである。
昨今、筆者のフォロワーさんの何人かは、気付いてきた、中世圧縮のトリックを。
北海道には中世が無いのではなく、「無い様に勘違い」させられているだけ。

まずは、上記の通り、説明節で詳細を記しても、まとめや総括で抜いてしまい、その上で他遺跡の編年指標で時系列を曖昧にする事。

更に、仮に火山灰層があれば、
・苫小牧火山灰層により近いもの
→古い(平安時代)側の出土物に扱う…
・Ta-b層により近いもの
→新しい(江戸初期)側の出土物に扱う…
これで中世は中空になり、そこにアイノ文化開始時点を嵌め込む…
この様な事が散見され、「時系列上の矛盾」を作り出している様だ。


故あって、急遽入手した発掘調査報告書だが、なかなか興味深い。
こんな風に検証していけば、おかしな所はバレそうな物だが、何故かそのまま。
筆者的には不思議でならない。

いずれにして、地層は絶対…
人類は未だ「タイムマシン」は持っていない。



参考文献:
「札幌市文化財調査報告書46 H317遺跡」 札幌市教育委員会 平成7年3月31日