「アイノ」が一言も登場しない調査報告書…美深町「楠遺跡」に見える擦文生活文化の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/11/063135

関連項はこの辺になる。
「時系列上の矛盾」としてブログアップしているが、他の発掘調査報告書の「ついで」に入手したこの報告書、「お見事!」なのである。
何故ならば、初めて本文中に「アイノ」の文言が一言も入ってない。
正確に言えば、村名の由来として…美深町の前進は名寄らしく、大正九年に知恵文村を分村した時に、アイノ語由来の「ビウカ」から名付けた…これのみ。
「アイノ」らしい遺物が全く無いのもあるが、THE学術書、更に予想は予想と書いている。
では、少し紹介してみよう。
美深町にある「楠遺跡」である。



「調査区は開拓以来の耕作によって削平されている。耕作表土は約40cm前後で全域にわたってほぼ一定である。耕作表土下は調査区南端に縄文時代の包含層がわずかにみとめられるほかは、地山である。地山は砂質黄褐色土がほぼ全域に広がっているが、調査区北部ではところどころに砂あるいは礫層があらわれている。昭和55年度調査区の北東側と57年度調査区の東側は周囲よりわずかに低く、厚さ30cm~40cmの砂礫層があることから、天塩川の氾濫によって形成された古い河道跡と考えられる。」

「各住居跡の覆土は大きく3つの層に分けられる。1層は~中略~中略~開墾当時までのこっていた竪穴住居跡のくぼみを埋めたものである。2層は多量の炭化物を含む層で、開墾時の野焼によって形成されたものと考えられる。3層は暗黄褐色土で遺物の大部分はこの層位から出土した。」

「楠遺跡の発掘調査によって発見された遺構は、擦文文化期の竪穴住居跡39軒と土壙1基である。」

「一軒を除く38軒の住居跡に作り付けのカマドがある。住居の床面からは、炉跡・柱跡などが検出されている。住居跡H-37は火災にあったものと考えられ、多量の炭化物が出土した。」

「遺構内からは多数の擦文式土器のほか、鉄製刀子、紡績車、砥石、木器、黒曜石剥片、カワシンジュ貝の殻皮などの遺物が出土した。完形および復元された土器は50数個体で、深鉢・高杯・杯の器種がある。これらの土器は器形および紋様構成からみて、擦文文化期のうちでも比較的新しい時期に相当するものと考えられる。放射性14Cによる年代特定によると、760±50 B.P.~920±70 B.P.の結果が得られている。」

「カマドおよび炉跡の焼土の水洗処理によって、サケ科とコイ科の骨片が採取された。また、住居跡のピット内土壌の花粉分析によって、本遺跡周辺でソバおよびイネ科の雑穀が栽培された可能性が示されている。」

美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日 より引用…

もはやこれのみで、概ねどんな遺跡なのかはっきり解ってしまう簡潔な調査概要である。
実は、地元の方へのインタビューで、明治の開拓期にまだ竪穴住居の凹みが解ったと記載される。
全く手付かずでその時代から眠っていた事になる…驚愕。
続けて、遺構,遺物の詳細説明とまとめになるが、敢えて割愛。
ほぼ、概要をトレースしている。

むしろこの報告書、付編が面白い。
1として、藤本強氏らの解析に準え、この住居跡の生活空間がどうなのか、遺物の位置により解析している。
住居はほぼ正方形だが、カマドを上にして、カマド側,右側に遺物や焼土跡が集中していると言う。つまり生活空間は右側~右奥側になる。

2として、土器は器形や紋様構成で、3グループに別れそれぞれ年代のズレからみて、住居跡の変遷を推定しており、それを放射性14Cによる年代特定で補完している。
一気に39棟あったのではなく、3グループで、変遷していると言うのだ。

3として、1つだけ包含層にあった縄文土器の解析(割愛)。

4,5として、土壌中に残った骨片と花粉らによる「何を食べていたか?」の解析。
これは、通常も植生含めやられている分析だが、特に気になった花粉の方を引用してみよう。

「ピットの下位を埋積したNo.3,No.4の試料からはそれぞれ1%弱ではあるがFagopyrum(ソバ属)花粉が検出された。」

「Fagopyrumは擦文時代の6ヵ所の遺跡で確認され、天塩川流域でも山田(1975,1979)により天塩町天塩川口遺跡の住居跡床面、名寄市知東H遺跡の住居跡床面で確認されている。」

「日本には野生のFagopyrumは存在せず、遺跡から検出されるFagopyrum花粉は栽培種のソバの存在を示すものと考えられる。一方、擦文時代には雑穀栽培が行われていたことがあきらかになっていることから、楠遺跡においても遺跡周辺でソバが栽培されていたことは確実であろう。」

「また、属の同定はできなかったが栽培種と考えられるイネ科の花粉もわずかではあるが確認されているので、ソバとイネ科の雑穀を栽培した農耕が行われていたと推定することができる。」

「但し、その形態、規模については、今のところ不明である。」

美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日 より引用…


ソバの原生種は存在せず、ソバとイネ科の何かを擦文文化人が農耕していた物証としている。
で、骨確認結果では魚の骨のみ。
4,5の結果を鑑みれば、魚と雑穀を食べていた可能性が高くなり、哺乳類の肉食がクローズアップされる「近世アイノ」より東北人に近く食性になる。
そう言えば、擦文って貝塚って無い、縄文のみ。
ゴミ処理方法が変わったとすれば、生活文化的に本州に近くなってくるのだが。

まぁそれとて、擦文期は、先史時代扱いなのだ。あまり影響は無い…か?
文化…違うよね…


ついでに、付記しておく。
この報告書では、先に出された昭和55年の概報の一部を修正している。
先に見つかった土壙2つ(遺物あり)の年代特定に曖昧な点が出た(表土層の炭化物流れ込み)為。
年代特定は、全ての要素を加味しなければ出来ないと言うこと。
今迄紹介した遺跡の様な、地層無視なんぞ飛んでも無い事。
この報告書はその点しっかりしてる事を加え報告しておく。


ここだけ見たら、「近世アイノの担い手」なぞ、一般生活文化に於いてはあり得ない。
むしろ、本州人に遥かに近い。

如何であろうか?



参考文献:
美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日