時系列上の矛盾…札幌市丘珠「H317遺跡」に見える二つ目の矛盾と農耕の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/11/063135

札幌丘珠の「H317遺跡」については、もう1つ書いておこうと思う。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/12/194452
せっかく楠遺跡で栽培型ソバを紹介したので、前項の植物分析の部分をクローズアップしてみたい。


「第3層から検出された炭化植物種子の中で注目されるものに雑穀がある。図番92-1a、b、cはよく保存されたオオムギである。標本20粒を計測して第57表に示しておいた。形態から判断する限り、H317第3層の擦文時代のオオムギは、擦文時代として同時期かそれよりもやや新しい時期に属する北海道大学構内サクシュコトニ川遺跡から検出された長形の裸麦(北海道大学埋蔵文化財調査室編:1986)と同様の品種としてみて良いだろう。」

「図番92-2a、b、cにはコムギである。きわめて小型で、完熟している。いわゆるエゾコムギと仮称しているグループで、その計測値は第58表に示した。この計測値は、サクシュコトニ川遺跡検出例の範囲に収まる。オオムギとおなじく、サクシュコトニ川遺跡の物と同様の品種(Crawford:1986)であろう。」

「これらムギ類がまとまって検出された地点から、図番92-3に示したムギの穂軸(rachis segment)の残片が8個検出されている。また、同様に図番92-4に示したムギの棹(culm)と思われるものが見つかった。その拡大版が図番92-5である。細胞の形態から、ムギの草本部分である事は間違いない。通常これまで我々のあつかった擦文時代の遺跡においては、こうした遺物が住居内の中から検出されることは、まずない。サクシュコトニ川遺跡においても、穂軸は集落の一部に見られた炭化物の集積箇所-炭化マウンドと呼ばれている-か集中して検出されている。この遺構は、ある種の廃棄場所と判断されているが、(椿坂:1989、吉崎・椿坂:1990)、DC02地点も同様に脱穀処理後の屑を廃棄する特定の場所、あるいはそうしたものが二次的に流れ込むような状況の場所であった、といえるだろう。」

「アワ・ヒエ・キビも、DC02地点から集中して出土している。」

「ヒエも奇妙である。発見された潁果の形態は、これまで北海道内で調査された擦文時代の遺跡出土のどの例よりも、いわゆる栽培型に近い形態を示す。これまで、現生タイプの栽培型に類するものとしては、余市大川遺跡から出土した擦文時代末期あるいは中世と思われるものがあった。しかし、その他の擦文時代遺跡から得られた資料は、縄文ヒエに似たものが多く、栽培型に近いものは稀であった。~中略~この観察が正しいなら、北海道の擦文時代前期から、すでに雑穀のアワ・ヒエ・キビが揃って出現していたことになる。」

「残余の栽培種としてはアサ、シソ属、アブラナ科マメ科がある。」

「札幌市文化財調査報告書46 H317遺跡」札幌市教育委員会 平成7年3月31日 より引用…


と言う訳で、DC02地点での炭化植物種子の検討結果を引用してみた。
麦やアワ・ヒエ・キビらが揃っていて、特にヒエについては、栽培種であると言う事は、前項で紹介した通り。
また、楠遺跡の栽培種ソバ同様、栽培種ヒエがもたらされていたのは間違いなさそうで、北海道でも、農耕をやっていたのではないか?と言う事を物語る。


では、時系列上の矛盾として…
前項で上げた遺跡の年代のズレを、ヒエの検討結果から考えられるのは次の二つ…

①擦文土器の編年傾向から導き出した遺跡は9~10世紀のもの…
→この場合、西暦800年代には雑穀三種全て揃っていた事になり、原始的農耕と言うよりは、色々tryしていた事になり、計画的な開拓を行ったのではないか?と推定も出来る。

②筆者の火山灰層の予想で10世紀以降のもの…
4層dの火山灰層は苫小牧火山灰層となり、H317遺跡のヒエと大川遺跡ヒエの出土結果が合致してくる。その場合、この遺跡は擦文末期~中世初期の物となってくる。

どうだろう?
二百年位のズレが生じる。


因みに、このDC02地点のオオムギの14C年代値は、1220±70y.b.P.、暦年代較正で756~889(82.6%)と測定される。
但し、名古屋大学でのタンデトロン加速機測定。
楠遺跡同様の液体シンチレーション法による測定は別の試料を京都産業大学で測定しており、こちらの擦文の測定値は、炭化堅果類で1420±60y.b.P.、炭化材で1040±280y.b.P.になっている。
同じ遺跡の別の種子で、二百年ズレがある(液体シンチレーションは補正なし)。
さて、真実は如何に?


まぁどちらにしても、東北経由で持ち込まれたのではないか?と言う予想に対しては、いささかも困らない。
①なら、計画的農耕の痕跡…朝廷の影響が示唆出来る。
②なら、失われた北海道の中世は農耕もガッツリやっており、食性は東北により近付いてくる。

どちらにせよ、我々が想定している姿に合致するのは変わりない…と、言う訳だ。


参考文献:
「札幌市文化財調査報告書46 H317遺跡」札幌市教育委員会 平成7年3月31日
美深町楠遺跡-天塩川改修事業の内楠築提工事用地内埋蔵文化財発掘調査報告書」北海道埋蔵文化財センター 昭和59年3月31日