時系列上の矛盾…北東北の研究で示唆出来る「蝦夷の人々」の降灰退避(追記あり)

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/20/164436

しばし続けている「時系列上の矛盾」…北海道の発掘調査報告書を紐解いているが、元々我々は「北海道~東北の関連史」の視点。
ここいらでこの視点を突っ込んでみよう。
2016年の日本考古学会弘前大会の報告資料集である。
「北東北9・10世紀社会変動」について、各研究者からの報告されたもの。
実は、この文献は筆者がある方から譲って戴いた物。
その方には感謝しかない。
「時系列上の矛盾」では、火山灰層を年代基準としているので、その延長線と考えて戴ければ。


「10世紀前半から中葉とする時期は、県内太平洋側(筆者註:青森県)とりわけ上北北部地域において重要な画期となる時期である。それまでほとんど空白であった六ヶ所地域、少し遅れて野辺地湾周辺にも集落が見られるようになる。」

「この頃の歴史的な動向に、915年の十和田火山の噴火がある。扶桑略記には延喜15年(915)に出羽国で降下火山灰による農作業の被害が記録されているが、十和田火山東方の南部地方にあっては、被害がこの程度では済まされなかったことは容易に推量できる。」

「10世紀中葉には白頭山の噴火による降灰が県内一円に確認される。文献資料や火山学、地質学等の成果を渉猟した船木は、この降灰による気温の低下、降水量の減少が北東北世界に与えた影響の大きさを指摘する。一方これらの二つの火山灰(十和田aテフラ(To-a)と白頭山-苫小牧火山灰(B-Tm))の竪穴建物への堆積パターンから建物跡の廃絶時期を求め、青森県域における平安時代の集落の消長を明らかにした丸山も、上北地域において十和田火山噴火と白頭山火山灰降下の影響による住民の避難行動があったと指摘する(丸山 2011)。」

「地域別に見ていくと、上北南部(奥入瀬川流域)は3期から建物数の落ち込みもさることながら、4期で断絶する集落の多さと5期以降の集落数の減少が顕著である。一方上北北部のうち七戸川流域では、4期を自発的とした集落が安定して継続する。」

「10世紀中葉以降、奥入瀬川流域では切田前谷地遺跡No.14が前代よりも内陸に入った丘陵地で、また七戸川流域では赤平(3)遺跡や内蛯沢蝦夷館No.23て、堀や区画溝を伴ったいわゆる「防御性集落」が出現する。」

「その後十和田火山噴火後(5期)には集落・建物数ともに爆発的な増加が見られ、前代の集落が継続すると同時に、新たに標高25~40mの緩斜面地(上尾駿(1)・(2)遺跡No.43・44)や標高60m前後の急斜面上の段丘(弥栄平(4)遺跡No.45、沖附(1)遺跡No.46)にも遺跡が形成されていくが、7期までには集落が激減し、居住痕跡は確認できなくなる。」

「野辺地湾沿岸域では、4期以前(To-a降灰以前)の確実な例はなく、集落が見られるのは白頭山降下直前段階からである。白頭山降下後は二十平(1)遺跡や向田(35)遺跡のようないわゆる「防御性集落」が出現するが、二重の壕で集落全体を囲み、内部居住区で複雑に重複し合う二十平(1)遺跡と、段丘斜面と上位平坦部での棲み分けや、区画溝による整然とした集落配置の中で建て替えを見せる向田(35)遺跡は、同時期同地域の集落とは思えないほどに対象的である。」

「出土遺物から二十平(1)遺跡は製塩業を担った集団、一方向田(35)遺跡は擦文土器や家屋墓、その他文物(ガラス玉、北宋銭)に北方との交易に従事した集団の違いが想定されるが、第一次産業(製塩)を担った集団と第三次産業(交易)に従事した集団の違いが、動産や不動産あるいは、集落選地や経営(経営方法や維持管理のルール)の差にも現れた好例である。」

一般社団法人日本考古学会2016年度弘前大会 第Ⅱ分科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「青森県域の動態②太平洋側」 加藤隆則 平成28年10月14日 より引用…

この研究報告では、十和田噴火や白頭山噴火降灰により寒冷化らが起こり、十和田川流域ら、十和田より東側ら影響甚大であろう地域から生活痕跡のない野辺地方面への避難移動を示唆している。
同時に、ここで擦文土器やガラス玉らの流入が、新規移住先である野辺地方面の遺跡から出現している。
ここにある二十平,向田両遺跡共に野辺地。

で、擦文土器らが出土した向田(35)遺跡、その集落での住み分けがされていると言う。

勿論、仮説レベルだが…
今まで紐解いてきた北海道の擦文期でも、苫小牧火山灰層は存在しており、影響は想定出来る訳で。
これも北海道に於ける、苫小牧火山灰からの避難による移住だとすれば、下記の様な事は起こってくる。

①降灰…
②特に被害が大きいであろう胆振~十勝周辺の人々が避難移住で、船で南下…
③幾つかの集落は空に…
④ここで、オホーツク系,北方の人々が流入する為のスペースが出来る…
と、言う訳だ。
当然、留まった人々が居れば、その人々に同化するべく、 共生が起きるだろう。

そしてこれは10世紀の話。
13~14世紀に書かれた「諏訪大明神画詞」の段階での日ノ本,唐人と繋がっても矛盾ない。
日ノ本,唐人が12~13世紀に流入したならば、むしろ辻褄が合ってくる。
そして、擦文土器は、秋田の能代にもあるので、北海道から回避した幾つかの集団は北東北で同化していった…
どうだろうか?
これなら北方からの流入も含めて矛盾は無く説明可能と考える。

で…
江戸期の有珠系火山の爆発…
これでも同様な事は起こり得るだろう。
北海道から回避した人々は、元々津軽,南部の人々が住んでいる集落の外郭に住み始めて、後に藩籍を入手し同化。
当然、その空いたスペースには、ロシアの南下で追われた人々が流入しうる条件が出来上がる。
それがこれ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/05/135443

そして…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/11/185110
組み直した新北海道史とも合致可能である。

どうであろうか?
それぞれ、まず天災からの回避移動。
短期間で行われたであろう。
これなら、擦文文化とアイノ文化が繋がっていない理由としては充分だと思われる。
アイノ文化が、本州の物資依存している事もなんら矛盾はない。
何せ、元々松前藩蝦夷地の運営には不干渉的だ。
「無為に治める」…乙名を任命して、知行地収益が上がれば問題視しないだろう。
そして、ロシア南下が顕著になり、幕府直轄時代を迎える。


さて、擦文(平安)期に話を戻せば、その頃から、東北では地方豪族が力を強め、安倍,清原氏が台頭、そして奥州藤原氏が治めて行く。
移住した人々を足掛かりに、渡島半島~道央~胆振に勢力を伸ばすのは、その武力らも含めて簡単だろう。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/10/053050
ここにも、矛盾は無い。


まぁ妄想、仮説レベル。
だが…矛盾は無く、説明可能だ。


追記…
尚、同書からの引用を下記に付け加えておく。

「上北地域への移住の背景としての北方交易(佐藤 2004)について、擦文土器や家屋墓、その他一般集落では通常出にくい文物(ガラス玉や北宋銭)を出土する向田(35)遺跡に南北交易の生産・中継地しての機能を、また二十平(1)遺跡のような製塩業を営む集落に、自家・地域消費以上の交易品の姿を見ることもできるが、一方で六ヶ所地域のように必ずしも擦文文化との交流を積極的に評価できず、また現状で馬産などの主要産業の痕跡を確認出来ない地域もあり、北方交易と直接的、間接的に関わった集落も、そうでなかった集落もあったものと思われる。新興集落の進出理由は上北北部でも一様ではなく、集団移動の背景としての北方交易は、数ある背景の一部を指摘したものと評価できる。」

一般社団法人日本考古学会2016年度弘前大会 第Ⅱ分科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「青森県域の動態②太平洋側」 加藤隆則 平成28年10月14日 より引用…

痕跡は陸奥湾側で、太平洋側では顕著ではなく、この段階での交流は、土豪の判断により「限定的」なのだ。
また「塩」を交易材料に使った可能性も、無くはない。


参考文献:
一般社団法人日本考古学会2016年度弘前大会 第Ⅱ分科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「青森県域の動態②太平洋側」 加藤隆則 平成28年10月14日