時系列上の矛盾…ではなく…考古学専門家が指摘する「北海道~東北の関係から見る、擦文文化の形成過程」

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/21/144647

さて…前項に続き「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集からの引用を継続しよう。
「北海道地域の動態-交流・交易を中心として-」と言う事で、報告がなされている。


「北海道では8世紀を画期として、それまでの続縄文文化の土壙墓とは全く特性の異なる末期古墳が構築される~中略~東北地方北部と同様の特性を持つ末期古墳と、続は文化の土壙墓の特性に加え末期古墳の特性を受けいれた土壙墓の二系統からなる形態の変容が見られるようになる。」

「このことから、北海道の末期古墳は北海道在地の集団ではなく、末期古墳を構築する技術を持つ東北地方土師器文化集団が北海道に移住・往来し築造したものと考えられる。」

「北海道では8世紀を画期として、土器の形式とともに器種組成様式も大きく変化する~後略」

「墓制・葬送の変化は、続縄文文化集団が北海道に移住・往来した東北地方土師器文化集団の墓制・葬送を受け入れ、擦文文化の墓制・葬送へと移行していく過程を示すものである。」

「北海道における擦文文化期の竪穴建物跡の分布をみると、8~9世紀の竪穴建物跡の分布は石狩低地帯の石狩川水域下流域に集中している。10世紀の竪穴建物跡の分布は、北海道北部の日本海沿岸河川河口部や石狩川水系中流域に拡がり~中略~11世紀の竪穴建物跡の分布は、前代までの地域に加え北海道北東部のオホーツク海沿岸河川河口域や北海道南部~東部の太平洋沿岸河川河口域にみられ、北海道全域に分布が拡がっていく。」

「8世紀後半~9世紀は、石狩低地帯の石狩川水系河川下流域が北海道における物流の拠点的な地域として、優位性をもち、この地域の擦文文化集団と、律令国家勢力あるいはその勢力下の東北地方土師器文化集団との秋田城を通じた「日本海ルート」による物流・交流が展開する。このことは、この時期の須恵器や鉄製品の物流などから明らかにすることができる。」

「一方、北海道と秋田(出羽国)との関係については次の史料からも裏付けられる。『続日本史』~中略~『日本三代実録』~中略~『類楽三代格』~中略~出羽国秋田城を通じた「日本海ルート」による物流・交易が展開し、本州産鉄器、須恵器などと北海道産毛皮類との交易が行われていたと考えられる。」

「(筆者註:10世紀以降)、この時期には北海道と東北地方北部(青森)との物流・交易が活発化し、「日本海ルート」に加え「太平洋ルート」による物流が展開していたと考えられる。また、10~11世紀の鉄製品の分布も須恵器と同様に北海道全域の遺跡に拡がる。この時期、東北地方北部(青森)において鉄生産が活発化することから、鉄製品についても須恵器と同様に東北地方北部(青森)を主体とする地域から北海道にもたらされた可能性がある~後略」

「また、この時期に北海道太平洋沿岸域や石狩低地帯を中心に錫杖状鉄製品や銅椀など密教(雑部密教)系の儀礼具と考えられるものが流入している(鈴木2014a)。このことは、本州の物流経済的な影響だけでなく密教(雑部密教)などに関わる東北地方北部で在地化した儀礼や信仰までが北海道の擦文文化集団に影響を及ぼしたことを示すものと考えられる。」

「さらに、11~12世紀には北海道の擦文土器と同様の特徴を持つ土器が、東北地方北部にもみられるようになり、これらの地域間に人的、文化的な交流が発展していたことがわかる。」

「一方、この時期の東北地方北部では、鉄や須恵器、米、塩などの生産が活発化し、これらが北海道向けの主要な交易品として~中略~この物流・交易を担っていたのは、東北地方北部の土師器文化集団であると考えられ、交易の富をめぐる集団間の争いなどを背景に集落を壕や土塁で囲郭した防御性集落が成立していくものと考えられる。」

「しかも、この時期には安倍氏清原氏あるいは陸奥・出羽守や鎮守不将軍などの軍事貴族が北海道の産物を都の有力貴族に提供していたことがうかがわれる。」


一般社団法人日本考古学協会2016年度弘前大会第Ⅱ文科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「北海道地域の動態-交流・交易を中心として-」鈴木琢也 平成28年10月14日 より引用…


要約すれば…
①東北のエミシの移住(墳墓変遷より)
②続縄文の文化が変わる(土器変遷より)
③エミシの土師器の影響で擦文土器が生まれる
④秋田城を介した「日本海ルート」完成
⑤東北の製鉄,須恵器,米,製塩の生産拡大
⑥物流拡大により「太平洋ルート」完成
⑦北海道全域に鉄器,須恵器拡散,密教流入
⑧東北の土豪が防御性集落を作る
軍事貴族の台頭

これが8~11世紀の考古学見地からの北海道~北東北の歴史の流れだと指摘している。
考古学の見地なら、これが当然なんだろう。
全く持って同意。
北東北での鉄器等の拡散も、「元慶の乱」の影響であろうと我々も考える。
これらのどれが抜けても「擦文文化」は完成しない。ここまではっきり指摘している。
因みに、この報告をしたのは「北海道博物館」の方。
古書の記載も含め指摘しているので、淀みが無いし、根拠もはっきりしている。

これは新北海道史における「先史時代」の事ではある。
が、そんな事は関係ない。
そして、この時代、「アイノ文化」の痕跡はまだ無い。


だから我々は言う。

北海道と東北は、古代から繋がっている。
それが切れた事は無い…と。


だが、敢えて言えば…
我々的には、まだ足りない物がある。
何故、エミシの移住が始まったか?
そう…鉱物資源ではないか?だ。
実は、秋田からの報告では、鹿角,花輪地区の竪穴住居数は、他の秋田の地域より多い。
尾去沢鉱山開山の伝説もまた8世紀なのだ。

「ゴールデンロード」…
北海道~東北~都へ繋がるこれが足りない。
まだ見えぬこの道をまた通じているだろう。
勿論、これは我々の妄想に過ぎない。

まだまだ先は長い…