時系列上の矛盾…北東北にある「擦文(系)土器」を作った人々について

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/21/144647
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323

さて、2項続けて日本考古学協会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 から書いてみた。
この際なので、北海道直接の部分を全て取り上げようと言う事に。
「北東北の擦文(系)土器」と言う内容で、齋藤淳氏が東北での擦文(系)土器の分布らを調査,報告している。
何故擦文(系)としているのか?
実は擦文土器とは定義が曖昧で、その編年を以前から試みている様だが、その終末を特定するに当たり、元々本来的な「擦文土器」の範疇から外れる物(「青苗文化」(瀬川 2004)等)も含まれ、その妥当性の結論が出ていないとの事。
よって、「擦文(系)土器」と言う事で報告をしている為だ。


この報告では、10~11世紀の擦文(系)土器のデザイン傾向により、地域性が分かれると言う。
北東北では、
A地域…
下北半島陸奥湾沿い~津軽半島東(外ヶ浜)…(陸奥湾,津軽海峡付近)
B地域…
津軽半島西側~秋田(能代)…(日本海沿い付近)
C地域…
奥入瀬川以南…(南部太平洋沿い)

に、出土品の傾向が分かれており、それが、
A地域…
渡島半島東側~噴火湾方面…
B地域…
渡島半島西側~道央日本海側…
C地域…
出土せず…
と、それぞれ対応する傾向が見られ、それがそれぞれの主な交流ルート…日本海ルートと太平洋ルートと対応するのではないかとした上で、それら擦文(系)土器の製作者を、下記引用文で仮定している。


「北奥における擦文(系)土器の存在理由については、擦文文化圏から嫁いだ女性が製作(瀬川 1996)、あるいは鉄・塩・米などの生産に従事した擦文文化の労働者が製作(三浦 2004)、もしくはそれらの生産物を求める擦文文化の交易者が製作したもの(天野 1987)などの見解がある。」

「いずれも北海道ではなく、北東北における製作-在地の「蝦夷」社会に、擦文文化集団が混在しているという状況を前提とした説であるが、その場合、北東北に短期・長期に滞在する北海道擦文文化に属する人々の製作、もしくは北東北に代々在住する擦文(系)文化に属する人々の製作、という2ケースが考えられる。擦文(系)土器の観察所見からの想定を考え合わせるならば、B地域においては前者のケースが、A地域とくに下北半島などにおいては後者のケースが主体であったと仮定したい。」

一般社団法人日本考古学協会2016年度弘前大会第Ⅱ文科会「北東北9・10世紀社会の変動」研究報告資料集 「北東北の擦文(系)土器」齋藤 淳 平成28年10月14日 より引用…


出現理由を仮説した三氏の論文を筆者は見ていない。
だが、ルート上に傾向が出る事から、理由が地域性を持つ事になるであろう事は有り得るだろうと考える。
そして、前項の様に、三氏が天災避難に言及している事を祈るばかり。
天災の影響があるなら、齋藤氏の仮説の根拠が強くなると思われるが。

ただ、擦文系のムラが出来た訳ではないので、移住があっても、長・短期滞在なのか?緩やかに同化したか?のどちらかと考えられるのは、前述のブログで指摘した通り。
で、この後に防御性集落も擦文(系)土器も消える…そう、より力を持つ安倍,清原氏軍事貴族達により束ねられると考えるのが妥当だろう。
お陰で物流拡大が進んでいく訳だ。と、地図化すれば解りやすいが、このA,B地域全てを抑えきったのは、秋田城、奥州藤原氏、後の十三湊(津軽)安東氏の三者のみ。
他はA,Bそれぞれしか抑えられていない…通史で見る場合、その辺を踏まえる必要はあるだろう。
北海道でも地域性が出ても当然なのだ。
特に日高を境に東西に分かれるのは、想像に優しいだろう。
受け手側の体制が全く違うし、交易物品の質も変わるのだから、一様な訳は無い。
そして、北海道と東北は、繋がったままなのは、間違い無い。

ましてや、食文化や竈が無い等文化が違う。
出土記録を見る限りでも、擦文文化集団は雑穀や魚類がメイン。更に「塩」まで使うのだ。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/19/184154
鯨や海獣をバンバン食う人々の侵入。
擦文→アイノとは考え難いだろう。

以上、三項に渡り報告資料を紐解いてみた。
これら知見も踏まえ歴史文献を読めば、また北海道通史の見え方も変わってくると思うが…どうだろうか?