「時系列上の矛盾」&「生きていた証、続報⑳」…やっと見つけた「古代の井戸様遺構」は白老にあった!

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/18/060108
直接はこれ、「時系列上の矛盾」の前項となる。
だが、同時に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/08/081429
「生きていた証」として紹介してきた内容は元々、北海道に於ける生活文化具を東北との関連性から紐解いていこうと言うもの。
実は、一番最初は「文字」そして「井戸」、それが「中世の竈」に拡大した訳だ。
これらは、生活や文化に直結し、誤魔化しが効かない。
と、言う事で、こちらも見て戴きたい。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/24/041443
後藤寿一博士は、江別の発掘を進める上で、「井戸」の存在を示唆していた。
まぁ縄文期でさえ、海,川に近い狩場や貝塚近くの作業場と高台にある居住区での水源は別れていた様だ。
だが、北海道の古代~中世には「井戸」の痕跡がない。中世渡島半島の城館の一部にはあるが、かの「勝山館」とて水源から引いた物の様だ。粘土や木枠で囲い、湧水を溜め込む「井戸」ではない。
近世アイノも井戸は使っていないとか。
当然、衛生上の問題も絡んでくる訳だ。

では、引用してみよう。
「遺構は4C区の杭の直下にあり、後背段丘崖と遺跡のある大地とが接する地点にある。」

「Ⅶ層を上面として作られている。上面径68×60cm、深さ36cmの穴に約2cmの厚さを持つ黒褐色の粘土で壁を設けている。この粘土で囲まれた穴は上面で37cm、底面で30×34cm、深さ36cmの規模を持つ。この穴の上面には、5~10cmの扁平な頁岩製の小礫が敷き詰められている。掘りこみ穴と粘土壁の間には、有機質を含む火山灰と、上面と同様の礫が埋められていた。」

「遺構内には底面より水がしみ出し、一時間程で水位は上面に達する。このことや、粘土壁の構造から、この遺構は湧水を利用した井戸に類する施設ではないかと思われる。」

「遺構の内部および周囲からは遺物は発見されなかったが、層序から見てⅡ群土器を伴う時期の遺構である可能性が高い。」

「アヨロ遺跡-続縄文(恵山式土器)文化の墓と住居址-」 北海道先史学協会 昭和55年3月31日 より引用…

先述の遺跡の概要部分では「井戸様遺構」として紹介している。
が、あまり話題になっておらず、「結語」章でもほぼ触れてはいない。
それはそうだ。

井戸の歴史…らでググって戴きたい。
我が国最古級の井戸跡とされるものは大体7世紀位のもので、飛鳥の地より西側。
各地に広めたのは、遣唐使から帰国後の「弘法大師」が密教の布教に際し、その知識,技術を広めたと言う話まである。
それより前と言うなら、場合によっては、これぞ最強クラスの「ミッシングリンク」と化す。
まして、ここでは大陸系文化の痕跡は一切出ていない。
編年指標が7世紀後半辺りと合致するなら話は別だが。
勿論、ここ「アヨロ遺跡」では、前項の通り、擦文期の遺物が包含層にある。
仮に擦文草期だとすれば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
この様に、北東北の土師器文化集団が、朝廷から受け継いだ技術で構築したとも成立してくる。

さて、「井戸様遺構」そのものの層序を見てみてみよう。
引用の通り、Ⅶ層に礫があり、Ⅴ層(続縄文(恵山)期の遺跡層)より下にある。
普通に考えたら続縄文期より下る事はない。
だが、何故か?この遺構上部は、Ⅴ層の下に1,黒色土層、2,褐色砂層、3火山灰…この3つの地層が入り込んでいる。
ここ、崖縁なので地滑りでもしたのか?とも、考えられる訳だ。
この火山灰層が、何由来なのかは記載なく、調べていないのかもしれない。
つまり、掘り込まれ剥き出しの井戸の上に、Ⅴ層より上の地層が地滑りで被さった…
妄想,推定はこの辺にする。

が、続縄文~擦文の遺物が揃う白老の「アヨロ遺跡」に井戸の機能を持つ人工的遺構があった事だけは間違いがない。
この時代に「アイノ文化」はまだ無い。
そんな文化と全く違う、それも朝廷に起因されると思われる「技術」を持った人々が「白老に住んでいた」と言う事実が大事であろう。


再度書く。
「技術」伝播の歴史を覆す事は不可能。
ましてや、生活に密着した「技術」なれば、絶対なのだ。
なら、白老に「先住していた人々」は…誰?
少なくとも「アイノ文化人」は有り得ない事になる。


歴史って面白いと思う。
たった一つの事実でガラリと変わり得るのだ。
特に北海道史は…


参考文献:
「アヨロ遺跡-続縄文(恵山式土器)文化の墓と住居址-」 北海道先史学協会 昭和55年3月31日