津軽「唐川城跡」に見える10~15世紀の状況…俘囚と安東氏の城館の関係

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/14/054041
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/21/052745

関連項は上記になる。
さて、たまたまSNS上で北海道の井戸だの城館だのと言う話題が飛び交った。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/26/205914
たまたま我々も「井戸」にたどり着いたのもあるが。
なので、筆者の手元にあった「十三湊遺跡発掘十周年記念フォーラム」の報告資料を纏めた著作があったので、少々紹介してみよう。
十三湊こそ、中世での北海道への玄関口である事は関連項の通り。
中世での港湾都市の姿をそのまま見せてくれる貴重な場所。
では、十三湊に関連していると考えられる「唐川城」に関しての報告を紹介してみよう。


「この場所は、標語一六〇メートルというこの地域では高いところにあり、非常に眺望のきく場所です。十三湊遺跡全体や十三湖、そして岩木川が見渡せます。もちろん日本海も見渡せ、かつ、その当時は木を切り払えば北側も十分に見渡すことができるという、非常によい場所です。」

「これは、国立大歴史民俗博物館の千田嘉博さんが作られた「唐川城跡要図」で、唐川城の構造がわかるようになっています。北から、第一郭、真ん中に第二郭、南側に第三郭と、郭が大きく三つに土塁と掘で仕切られています。」

「そこに、地表面でもはっきりわかる井戸跡がありました。~中略~竪穴住居跡が五つほど見つかり、竪穴住居に伴う竪型炉とよばれる製鉄炉跡も出てきました。」

「第二調査区では、大きさが二〇メートル×一五メートルという、非常に良好な平坦地が見つかり、この部分も発掘調査しました。おそらくこのような平らなところに礎石建物(石を基礎にした立派な建物)があったのではないかと期待して発掘しました。発掘の結果、ごく簡単な小柱穴はあるものの、大きなきちんとした建物はないことがわかってきました。」

「次に土塁と掘について報告します。~中略~ここでは、土塁と堀がいつつくられたを調べるため、幅三メートルのトレンチをあけて土塁を断ち割り、層ごとに掘り下げていくという調査をいたしました~中略~南側の土塁(三郭側)が外側ですが、大きさは、幅が基底部で四メートル九〇センチ。上部で二メートル五〇センチ、高さが八十センチ。内側の北側土塁(二郭側)が基底部で四メートル、上場で一メートル六〇センチ、高さ四〇センチの、かなりしっかりした土塁である事がわかってまいりました。」

「外側の土塁のなかから、土師器の長甕の口縁が出土し、この土塁が築造された年代を一〇世紀の後半と考えました。また調査の最終段階で、土塁の上のくぼんだ部分から炉跡が出てきました(図3参照)。おそらく、これは土塁を築造したりするときに使う工具を作ったり、工具を鋳直したりするための簡単な鍛冶炉ではないかと思います。同様の遺構は地表面から全体で一〇か所前後確認されています。その中から一〇世紀後半の土師器長甕の口縁部分が出てきたということで、土塁の年代も中世のものでなくて、間違いなく古代のものであるということが推定されました。ただし、この土塁の表土から一五世紀前半ごろの珠洲焼の摺鉢の破片も出ていますので、土塁も中世の段階に再利用されていたことがわかりました。」

「前略~井戸跡を半分に割って調査しました(図6・写真7)。その結果、直径が約一一メートル、深さが三・五メートルという、非常に大きな井戸であることがわかってきました。掘り進めていくと水が湧くことがわかり、間違いなく井戸跡であると思います。また井戸枠などありませんので、素堀りの井戸だと考えています。」

「この鍛冶炉跡はおそらく鉄を製錬したと思われる鍛冶炉跡です。この炉跡を断ち割ってみました(写真10)。長さが約八〇センチ×約四〇センチです。そして、この井戸の斜面に大鍛冶のときに出てくる流動滓と呼ばれる鉄くず、つまり鉄の滓が大量に出てきています。そのようなことから、もしかすると、このような鍛冶のときにこの井戸の水を使ったのではないかとも考えています。」

「我々は唐川城が安藤氏の居館である可能性を考え調査してきたわけですが、第二郭の平らな二つの段は、どうやら、古代(一〇世紀後半)の防御性高地集落を利用して、中世の安藤氏が臨時的に利用したものであろうと考えています。」

「遺物の面からいいますと、擦文土器が出土しています。これは非常におもしろいと思います。」

「次に唐川城の位置づけについて述べます。先ほどもうしましたように、原型は一〇世紀後半の防御性高地集落です。大事な事は、標高一六〇メートルという、津軽地方においては非常に高いところにある高地性の防御集落であり、かつ面積が最も大きいことです。正確に測ると八万二〇〇〇平方メートルあり、ほかの津軽地方で見つかっている防御性高地集落、あるいは環濠集落とよばれる集落がありますが、それらと比べると格段に大きいということが判明しました。古代のころから十三湖周辺は非常に重要な地域であったということです。そして、歴博で調査した福島城と今回の唐川城の築造時期は同じ一〇世紀の後半と考えられるのです。」

中世十三湊の世界-よみがえる北の港湾都市- 「唐川城の発掘調査」 前川 要 青森県市浦村(編集協力 千田嘉博) 2004年9月30日 より引用…


ご覧の通り、前川氏は、防御性集落を中世に再利用すした事を述べている。
その上で、元々この地は有力豪族が治めた由緒正しい場所で、中世に安東氏はここに入る事で自らの地域支配の象徴化と正統性を訴えたと考えている様だ。

さて、考古学的な見解でいけば…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
この辺に合致してくると言えてくる訳だ。

巻末に千田嘉博氏がフォーラム全体の解説を
寄稿しているが、千田氏は解釈を見誤ると間違いが起こる事も視野に入れつつ、樺太沿海州にある十一~十三世紀の土城と山城の関係についても示唆させている。
が、俘囚=エミシは十世紀には防御性集落を作っているのも事実。
山城と平城のコンビネーションも200年位東北の方が遡れてしまう訳だ。
因みに、東北の年代は十和田らの火山灰層を根拠にしているので揺るぎ無い。
どうみても、北東北の動きと北海道の動きは連動している様に見えるが、如何だろうか?


さて、話を中世に戻そう。
「この時点での公式見解」として、「コシャマインの乱」についても書いている。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/21/152153
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/16/185120
この辺でも書いたが、有ったか?無かったか?「コシャマインの乱」…「新羅之記録」らに記載された「道南十二館」だが、候補とされた場所を発掘したら、戦乱の痕跡はなく、あったのは中世城館ではなく、防御性集落の痕跡だった事例は、幾つかある。
なら、
津軽・渡島衆が擦文期に防御性集落構築…

安東氏が××館として再利用…

これなら、福島城,唐川城同様に、擦文期に既に土木技術者が居るであろうから、何の問題も歪みもない。

勿論、時系列上、擦文人たる津軽・渡島衆は、「アイノ文化」なぞ持っていない。
ここは間違いが無い。



参考文献:
「中世十三湊の世界-よみがえる北の港湾都市-」 青森県市浦村(編集協力 千田嘉博) 2004年9月30日