時系列上の矛盾…ホットスポット「余市」にあった「弥生文化集団」とのコンタクト痕

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/31/170615
さて、ホットスポット余市」でもセンターを担う「大川遺跡」。
一次資料としての発掘調査報告書を読むと、まだまだ凄い話は出てくる。
本来はビックニュースとして扱われるべき内容が、こんな風に出てくるのだ。
では、引用してみよう。
大川遺跡迂回路地点出土のP-103墓坑についての記事である。

「MO-20に南側上面を切られるが、長軸を北東-南東方向に持つ円形或いは楕円形を呈すると思われ、現状で長軸1.13m×短軸0.95m、深さ約31cmを測る。」

「坑底面にはベンガラが散布され、遺体は判然とせず、歯も確認されなかったが、検出状況から東頭位の屈葬と推定される。」

「西側に石鏃1点、剥片1点が出土した他は北東側に遺物が集中しており、濃い藍色を呈するガラス玉2点、薄い水色のガラス玉が33点が一部を除いて散らばった状態で見られ、その南東側には弥生系土器が立った状態で出土した。土器の外観は肩のあまり張らない壺型を呈しており、口縁部に横方向の2条の結節縄文、頸部から同部に撚糸紋が縦走、赤色顔料により彩色が施され、丸模様などが看取される。これらの伴出遺物より続縄文時代後半の後北C2-D式期に属するものと思われる。」

「大川遺跡(2003年度)-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 余市町教育委員会 平成16年3月26日 より引用…


迂回路地点では48基の墓坑がこの時確認されたが、その中の一基で弥生系土器が副葬されていると言う。
また、第Ⅳ章まとめでも下記の通り触れられている。

「その中で特記すべきは後北C2-D式期の墓坑群とともに弥生系の墓坑が1基発見されたことである。これまでの調査で知られていなかった時期のものであり重要である。」

「後北式期の墓坑は円形または楕円形を呈し、径1~1.5mを測る。遺体は東頭位の屈葬でベンガラが散布されているものもある。副葬品として土器、石器として石鏃、装身具としてガラス玉がみられる。」

「しかし、恵山式期と比較して副葬品は数点程度であり、その量は急激に減少する傾向がある。」

「弥生系の墓坑は円形を呈するもので径約1.2mを測る遺体はほとんど痕跡がないが玉の位置から東頭位の屈葬と推定される。厚くベンガラが散布されており、副葬品として土器1点、石器として石鏃1点剥片の集中、装身具として水色と藍色のガラス玉が35点も確認された。恐らくこれらの玉は本州の弥生文化の文物として搬入されたものであろう。」

「大川遺跡(2003年度)-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 余市町教育委員会 平成16年3月26日 より引用…


と言う様に、その重要性を指摘している。
この弥生系土器の他に、この時の発掘では、瓢箪型土器やウニ型土器ら変わり種が出土しており、続縄文として初お目見えしたものは数点ある。

さて、弥生系土器…
このまま読み取れば、既に続縄文段階で、余市の続縄文文化の人々は、弥生文化を持つ人々と少なくとも直接,間接的にコンタクトしている事になる。
まぁ、縄文期既に円筒土器文化圏の一部として動いていたなら然もあらん、むしろ、これだけ広大なルートで動いていたなら、ある意味有って当たり前なのかも知れない。

これら一次資料からも、先祖達のダイナミックさや、北海道が全く孤立した存在では無かった事が頷けるのではないか?
他にも、中世では建物ではないか?濠ではないか?と言う土坑があり、その発展度が伺える貴重な遺跡なのだ。
但し…
実は、2003年を持って、大川遺跡の発掘は終了しており、この後掘削され、殆どは河川となり既に失われているそうで。
もはや、この周辺は失われ、これら発掘調査報告書からしかその様子をうかがい知る事は出来ない事も、付記しておく。


参考文献:
「大川遺跡(2003年度)-余市川改修事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-」 余市町教育委員会 平成16年3月26日