ゴールドラッシュとキリシタン12…史書に記された「南部藩主」とキリシタンの関係

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/08/195030

前項のフィールドワーク時に「もりおか歴史文化館」にも立ち寄っていたが、率直な質問へ回答を戴いていた。
ズバリ「南部藩主とキリシタンとの関係は?」…「内史略」に一部記載があるとの事だった。
それでは引用してみよう…と言う前に、「内史略」とは?
wikiでは、「江戸後期に『奥南旧指録』『盛岡砂子』『登曽草紙』などの当時残されていた多量の史料を中心にまとめた編集史、後編は藩の財政事情、百姓一揆、凶作など多方面の記録を採録。」とある。
活字化されたものがあるとの事だったが、秋田県立図書館に全5巻揃っていた。


「備後守信恩公の御母菊池又右衛門姉れん、此両親兄弟は切支丹にて生害 依之れん女下御台所へ駆込助命す 其後御湯殿水師と成 後に行信公の妾と成 久信公(後信恩)を産上る 依之信恩公御家督後 おれんとの弟を被召出 菊池又右衛門と家名を下賜 百石に十五駄被下列御家士(菊池又右衛門 始は川原町に住居 岩井佐左衛門と云) 川原町円光寺は
於れん殿両親菩提の為に御取立 於れんとの正徳二壬辰年四月二十日卒去 法名慈恩院殿機法明林大姉 葬東禅寺 円光寺領五十石并鐘おれんとの寄附也」

「岩手史叢 第一巻 内史畧(1)」岩手県立図書館 昭和四十八年四月二十日 より引用…


「南部信恩」公は1678~1707年の人物で、盛岡南部藩としての五代藩主。
で、その母「慈恩院」が、切支丹だった事が「きりしたん おれん事歴」として記される。父ら一家はキリシタンとして処刑、生き延びた弟は、岩井佐左衛門と名乗っていたが、上記通り信恩公に仕官して、処刑された父の名を継ぎ一家再興を許されている。
既に宗門改めらが出来上がった時代故、棄教する事で生き延び、御家再興まで辿り着いた事例になる。
単なる一方的な「弾圧」だったとは言えなかったと言う事になる。
恐らく、探せば他藩でもあるだろう。

つか、見ての通り、大名家って…奥方が微妙なんだが。
久保田藩でも、西の丸にアンジェリス神父が入り洗礼したとか…
閉鎖空間であるが故…勘繰りたくなる部分はある。
また、1620年代頃の弾圧経て、宗門改め実施に辺り、この頃には…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/09/11/174246
もはや大臼宗として拡散しつくして、寛容になっていた可能性もある。
まして、奥方の方に蔓延していれば、藩主として弾圧を続けていくのも難しくはなるか。

因みに…
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E6%81%A9
信恩公は、こんな方。
世継の兄が早く亡くなり、家督を継ぐ事に。
父の行信公は儒教漬けになり、 藩政に口出しする様になった政敵たる儒学者の排除からスタートと言うなかなか厄介なパターン。
記録が残る=政敵が藩主追い落としの為書き残した…これは、背景として折り込む必要があるだろう。


いずれにしても、盛岡南部藩として公式に編纂された古書に残された話ではある。
たった一つの欠片ではあるが、「キリシタンネットワーク」が切れず続いていた可能性はある。
何故気になるか?
明治維新後、キリスト教へ改宗した要職者が結構居るから。
そして
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/03/074515
元々こんな話があるから…

ふと思う。
我々我が国民が、あまり宗教を口にしないのも、こんな事こんな時代から?。


参考文献:
「岩手史叢 第一巻 内史畧(1)」岩手県立図書館 昭和四十八年四月二十日