時系列上の矛盾…「二風谷遺跡」調査続編にも記されていた「木造住居」の痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/10/104637
前項に続き、発掘調査報告書による「時系列上の矛盾」を進めていこう。
たまたまではあるが、前項根室の焼失家屋以外にも、火災による炭化材検出例をみつけている。

実はそれが、以前紹介した「ユオイ,ポロモイチャシ跡&二風谷遺跡」の続編たる「二風谷遺跡」の発掘結果なのだ。
参考に…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/04/192347
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/03/201533
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/02/184205
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/11/30/161755

では…

「現在の二風谷市街は、これら遺跡群より山裾にあり、したがって標高も遺跡地より高くなっている。」
平取町では、昭和30年代、全町的に水田造成が行われているが、遺跡のあるあたりも、昭和40年前後に造成されており、そのため、遺跡の上面はかなりの程度破壊されていた。」
「そういう状態の中で、例えば、本年度調査のA-地区のように、1667(寛文7)年の、樽前山噴火による火山灰Ta-b層の下に発見された、アイヌの焼失家屋などは僥倖な残り方だった、ということができる。この焼失家屋の調査ができたことは有意義だった。」
「それは、このチセのどの部分に使われていたかは、専門家による今後の検討にまたなければならないが、なかりの量の割板=rashiが使用されていたのが分かったからである。このことについては、この報告書のなかで、この調査会のメンバーである萱野茂氏によっても述べられていることになるが、従来の、カヤと木柱を主体に考えられていたアイヌのチセ=chiseづくりに一考を要することを示唆している。」
「割板を、本例とほぼ同時期に使用した例としては、昭和59年度調査のポロモイチャシ跡においても見られる。」

「(筆者註:A地区焼失家屋)本遺構は、X-97.98、Y-97.98の4グリッドにまたがって検出されており、調査区のほぼ中央に位置している。検出した層位は、第Ⅲ層(真黒色土)上面であり、Ⅱ層(Ta-b)を除去していく段階で次第に炭化物の分布が明確となったものである。なお炭化物の上面は、火山灰を被っている状態であり、遺構内より出土した鉄鍋、錐石などの遺物も同様の状況であった。また、遺構外より出土した同種の遺物も同じである。」
「炭化材は、ブロック状の炭化物の塊が板材状に薄く広く分布しているものであり、柱材よような断面形を呈する炭化材は検出されなかった。これらから板材と思われるものが何枚も分布しており、このうち最大では幅約40cm長さ約280cmを測り、厚さは1~2cm程である。」
「また、明確に板材として認められないものも多い。しかし柱材と思われるものは認められず、多くは太さ2~3cmの丸太状のものであった。さらに、微細な炭化物(草木類)の集中しているものも検出されていた。」
「炭化材、炭化物をすべて除去した後、柱穴を精査した結果、幾つかの窪みを検出した。径の小さなものは、断面円筒形を呈しており、大きなものは、断面形がスリバチ状を呈している。」

「B地区においてもA地区同様第Ⅲ層(真黒色土)上面に炭化材が3地区で検出された。」
「炭化材は、A地区で検出されたものと同様に板材と思われるものが多く短いものが多い。また、これらの周囲には細かな炭化物が密集している。」


平取町 二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設用地内)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 室蘭開発建設部/平取町 昭和61年度 より引用…


序文と本文を引用してみた。
A地区はユオイチャシの南東に面し、以前発掘した二風谷遺跡との接続部分を、B地区はポロモイチャシの東側で北東が以前の二風谷遺跡と接する。
で、ポロモイチャシ跡において、建物の焼失跡があるのは概報。
居住地区であろう二風谷遺跡にも、焼失家屋が検出されたと言う訳だ。

炭化材らはバラバラに分散し、家屋構造を示せる内容ではない。
本文中には「床材?」とも考えられているが、まともな柱材が無いし、そもそも明確に柱穴が無い(凹み程度)ので掘立住居ですらなく、それなら建つのがムリなのでは?
むしろ2×4の如く壁材で建てたのでは?
ましてや地炉跡があり、床にはならない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/13/062742
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/11/143552
更に、チセに床が作られるのは、幕府の指導による。
この報告書の後ろには、最初に復元チセを作った「萱野茂氏」がチセについての解説「アイヌチセについて」が附帯しており、その中でも、寝床として板張りよりむしろ松葉やらを敷いて莚を引いた方が暖かい感じがしたとある。
床材では全てにおいて矛盾するのだ。

そう、この焼失家屋の建材は、現状考えられている全てのチセと矛盾している。
床としても…壁や屋根材としても…柱が無いのも、全くチセとは直結してはいない別物となる。
それがアイヌ住居だと、何故断定出来るのだ?、違う人々が建てた事も考慮して、検証する必要があるのに。
ましてや、仮にチセにバリエーションを持っていたなら、降灰後もあっておかしくはない。
だが、そんな話は無いのでは?
続けて、この炭化材はA地区だけでなく、B地区にも散乱しており、複数の家屋が焼けている事になる。
ポロモイチャシの掘立建物も火災の跡がある。

まさか戦乱?…でもあり得るのだ。
この頃、シャクシャインと鬼菱は抗争中。
その場合、この辺を治めていた側は誰?
とりあえず、戦乱と言う邪推はここまで。

少なくとも、擦紋~江戸初期迄、板張り板葺き住居に住む人々が既にいて、アイノ文化の痕跡をほぼ出さずに暮らしていた「可能性」があると言う事だ。
そしてそれらは、降灰直前に火災で倒壊…降灰直後にそこに入り込み、墓標とチャシ木柵を引っこ抜いた集団が居る…ここまではあり得る。


さて、追加の研究は?…されていないだろう。
されてたら、後にそれらが反映されるハズ。
だが、ウポポイを含め、屋根材,壁材で板張りしたチセがあるか?…無い。茅葺きなのだ。
トドメは幕府指導の床張り。
これで良いのか?


さて、散々書いたが、これらチセの矛盾をたった一つだけ矛盾なく説明する手段がある。
『「チセを建てた文化集団たる、アイノ文化を持つ人々」と「焼失家屋を建てた文化集団」は、全く別の文化集団である』
都合良く、火山灰で隔絶されている。
全く矛盾が無い。

更に、興味深いのは…
何よりそれが、アイノの聖地たる平取町「二風谷」に存在する事だ。
上記説明なら、矛盾は解決出来る。
違うとは言えないのだ。
まさか、「萱野茂氏」の「アイヌチセについて」に、ケチをつける訳じゃないだろうな?
なら全ての再現チセは嘘っぱちだと言うようなものだ。



参考文献:
平取町 二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設用地内)埋蔵文化財発掘調査報告書-」 室蘭開発建設部/平取町 昭和61年度

「ユオイチャシ跡・ポロモイチャシ跡・二風谷遺跡-沙流川総合開発事業(二風谷ダム建設予定地内)埋蔵文化財調査報告書」財団法人北海道埋蔵文化財センター 昭和61年3月26日