時系列上の矛盾&生きていた証、続報23…「サクシュコトニ川遺跡」に見える農耕痕跡と漁労痕跡

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/18/110054
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2021/01/20/192453
「サクシュコトニ川遺跡」の第三段…
この遺跡を最も有名にしたのは、実はこの事…「擦文期の農耕の痕跡」。
前項で、「炭化マウンド」から出土の刻書土器を紹介したが、実は「炭化マウンド」から出土したのは、刻書土器だけではない。
話を広げ、むしろ「生きてきた証」として、擦文文化人は、何を食べていたのか?に着目してみよう。


「前略~炭などは第Ⅴ層の粘土層の上部から堆積していた。」
「炭などの分布範囲は、長軸約14m弱、単軸約0.4m~0.6mで、ふたつの小マウンドが形成されている。マウンドはもっとも高い部分で約40cmである。」
「また、サケ科魚類の椎骨・歯などの動物遺存体やオオムギ、コムギ、コメ、アワなどの植物種子類、トドマツ、ミズナラ、ハルニレ、ヤチダモなど26科26属の炭化材が出土している。」


「かつて遺跡を流れていた埋没河川の中から、木製の柵状遺構が発見された。川の中につくられたこのような施設はアイヌ民族なのが遡上するサケ科魚類などを捕獲するために、川幅いっぱいに木製の柵を張り巡らせる「テシ」に似ている。そこで、以下の記述に際してはテシという用語集を使用することにする。」
「テシが発見された場所は、遺跡のもっとも南側で、旧コトニ川の一支流、いまは埋没してしまっているセロンベツ川の中にある。」
「テシの基本骨格構造材は、川底に打ち込む杭とそれらを横方向に結ぶ横木の2種類があり、さらに、それらの間隔をうめるための枝材が追加される。杭は、62点の割杭と33点の丸杭の2種類がみられる。横木は49点の割材と16点の丸材の2種類がみられる。」
「川幅いっぱいに張り巡らされたテシで、杭がもっとも密に打ち込まれていたのは左岸部である。」
「以上のような間隔で川底に打ち込まれた杭は、左岸の割杭密集部分を基準にとれば、川上へ向って「ハ」の字状に配列されている。」


「哺乳類については、中~大型の哺乳類の遺存体は、ほとんど検出されなかった。ウサギ類は第19地点(07-08)から出土しているだけであるが、ネズミ類は顎骨・中節骨・基節骨・尾椎など比較的多い。大きさはイエネズミほどである。」
「以上、動物遺存体の分析を行ってきたが、出土数は圧倒的に魚類が多い。」


「まだ分析していない試料の中に、かなりの量のムギの小穂の柄の一部が含まれている。このことは農耕の存在と矛盾しない。さらに、筆者はこれら栽培植物が食生活の中で重要な位置を占めていたと考えている。」
「これら栽培植物の多くは日本列島の先史遺跡からの出土としては最北の例である。また、アワ、イネ、ウリ、コムギは道内最初の例である。イネ、ウリはごく少数のため、栽培されたものである確証はない。」


「サクシュコトニ川遺跡の古代人は、オオムギ、コムギ、アワなどの耕地を所有し、さらに集落のはずれの小河川の魚止めで、豊富な蛋白源を確保していた。」
「また集落の立地が中小河川の上流域にみられるにせよ、ここが季節キャンプとか狩猟キャンプであったという確証は全くない。周辺に農耕地をもつ通常の集落であろう。」
「北海道のこの時代のものは、本州の土師器を伴なう一般的な住居と同類の構造の住居を持ち、米以外の雑穀栽培がなされていたことも確認されている。たしかに、当時の政治組織からすれば、ここは化外の地であろう。しかし、物質文化の上からみれば、東日本の大部分の地域と「擦文文化」の間に、それ程異質性を強調する理由が果たして存在するだろうか。本州東北部の文化の周辺として扱ってはいけないのであろうか。調査関係者の間でも、この問題に関しては意見が一致していないのである(たとえば、吉崎昌一岡田淳子:1984,pp80~105)。今後、広い視野からの検討が必要なのだろう。」

「サクシュコトニ川遺跡 北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原初的な農耕集落」 北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61年3月20日 より引用…


と、言う訳で、農耕地こそ見つからなかったが、炭化種子からムギやヒエ等の雑穀を「農耕」したであろう痕跡を、北海道で初めて立証したとされる遺跡。
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幾つか農耕を示唆させる遺跡の先陣をきったのが、ここである。

また、哺乳類等の残骨が少なく、ほぼ蛋白源は魚中心となる様な食事をしていたであろう事を示唆させる。
まとめを書いた筆者は、竪穴住居での「煙道付き竈の出現」の理由の仮説として、食生活、特に雑穀の出現を挙げていたとの事。
それを補てんするには、栽培種の炭化種子の検出は大きな意味があるだろう。
ここでは、鉄製農具の出土は無いが、他の遺跡では、鍬や鎌らがある。
だが、これらは北海道を東西に分ける山脈の西側に偏重(擦文期)しているという。
つまり、農耕は西側から入ってきたと思われる。


更に、テシ…いや、河川での柵状遺構も、ほぼ形状が解る様な出土がされている。
動物遺存体では、サケ類(シロザケメイン)とされ、漁労も一次資料としての確認が取れた様だ。
ただ、上記の通り「テシ」と言う表現は如何であろうか?
何故なら検索してみると、
https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/smph/tanoshimi/rekishi/furusato/tenji/h12/sinhakken4/simoyakebe.html
実は、この手の川を一部遮り魚を集め獲る施設漁具は、既に縄文期から使われ、遺跡でも残される。これを「網代」と言う。
網代は後に「簗」に進化し、最大の漁獲を得た上で、捕り過ぎ無いよう配慮されていく。
平安の記録でも残される様だ。
何より、柵状遺構の説明では「テシ」とされているが、まとめでは「魚止め」と表現されており、後者の筆者はアイノ文化との関連性には慎重な立場とも読み取れる。
当然なのだ。
考古学視点で、東北と共通の文化だとも考えられると匂わせている。
まぁ「竈」の表現を鑑みれば、東北の研究者なら、「テシ」なぞと断定する様に誤解される表現はしないであろう。
柵状遺構のままか?、せいぜい譲って「テシ状遺構」。一次資料たる発掘調査報告書で「印象操作」したなどと言われたら問題になる。


まぁ、ここまで見て戴いた通り、この遺跡の出土結果を鑑みれは、この周辺に住んでいた人々は、極めて東北に近い食生活を営み、共通の道具を使っていた事になる。
何せ、最近の研究でも…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/12/23/054323
東北の土師器文化集団の移住や共生,同化が示唆されており、それらの口火を切ったのが、この遺跡だろう。


この段階で「本州東北部の文化の周辺として扱ってはいけないのか?」…この問題に関しては意見が合致しないのは何故か?
当然と言えば当然。擦文文化段階で東北と同様な文化になれば、ミッシングリンクが発動し、文化が近世に繋がらない矛盾にぶち当たる。
①擦文土器でなく土師器
②農耕
③殆ど獣を食べない
④竈の存在
⑤製鉄にtryし、失敗…
これら文化として衰退、失ったものばかりで文化として、とても繋がっていかないのだ。
ここで、東北と共通等とは、口が裂けても言える訳がない。
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428
基本的には、消去法で「アイノ文化しかない、故に繋がっている「だろう」」…これだから。
筆者的にはここは間違いだと思っている。
「繋がっている」「繋がっていない」の両面から仮説し、どうなのか?また何故それら文化を失うのかを検討するべきだと考えるからだ。

いずれにせよ、「サクシュコトニ川遺跡」の発掘結果では、極めて東北に近い生活をしていた事は間違いの無い事実。
この後に、擦文文化人達は、鉄器や須恵器をを拡散しながら、全道へ生活拠点を広げていった…ここまでも、考古学的見地での事実。
なら、アイノ文化は何処からもたらされた?

この問いに、正しい答はまだ無い。


参考文献:
「サクシュコトニ川遺跡 北海道大学構内で発掘された西暦9世紀代の原初的な農耕集落」 北海道大学埋蔵文化財調査室 昭和61年3月20日