安東愛季公と中央史との関係…秋田家文書に残された「羽柴秀吉書状」にある「本能寺の変」

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一応、安東愛季公と中央史との関係も、断片として抑える必要はあるだろう。
安東愛季公は、織田信長公へ鷹を送り、友好的関係を結んだり、上杉謙信公とも同様のやり取りをしている事は知られている。
どうも謙信公との仲に信長公が牽制を入れたとの説もある模様。
また能代市史資料編には、朝倉義景の家臣と思われる一源軒宗秀と言う武将から、好美を結びたい旨の書状と脇差、衣装、鉄砲らを含め送られたとの話も(元々、湊安東とやり取りがある模様)。

今、大河ドラマ麒麟がくる」のクライマックス「本能寺の変」になるところ。
では、愛季公は?
能代市史に秋田家文書があったので、紹介してみよう。


「御懃ろの尊札拝見致し候。このたびの信長御不慮の儀、仰せの如く是非なき次第に御座候。」

「東国御出馬の刻より我らことは西国表へ相動き、備中国において冠山の城を取り巻き、すなわち乗崩し一人も残らず討ち果たし候。ならびに河屋の城へ取り懸かり、これもまた丈夫に取り巻き、水の手を取り塀際まで責め詰め、即時落居し候。元の競いをもって亀石の城へ退散仕り候。然らば高松と申す城へ押し寄せ候のところ、三方沼にて候のあいだ、四方に堤を築きて、近所の河を切り懸け水責めに申し付け候のところ、城中難儀仕り候について、後巻として毛利右馬頭・吉川・小早川、五、六万にて罷り出て、こなたの陣取りと、わずかに五町、六町のあいだ山取り仕り候。誠に天の与えたることに候条、一戦に及び討ち果たすべきと存じ候ところ、去る六月二日京都において信長御不慮の仕合を注進候のあいだ、同五日まで対陣仕り、右の湖へあたか舟を入れ、四方より押し寄せ、同じように責め崩し、城主を始めことごとく首をはね候。然るあいだに彼表の儀種々懇望仕りあいだ、毛利相抱え侯国の内、備中・備後・美作・伯耆・出雲、この五ヶ国この方へ誓紙を請け取り、その上人質両人まで召し置き和睦せしめ、同七日に播州姫路の城へ打ち入り、同九日より京都へ切り上げ、十二日に山城国山崎表において一戦におよび、即時切り崩し、鎚下において三千余を討ち捕らえ、明智日向守そのほか左右の者どもをばはっつけにかけ、京都にさらし置き候。」

「然る上、城介殿御若子取り立て、御分国中前々の如く相治め、尾州に三介殿、濃州に三七殿を据え置き候。拙者こと山城国山崎に居城普請申し付け、機内静謐の儀に候の条御安心安かるべく候。」

「来年は東国に至り、相動き相届かざる仁に申し付くべく候あいだ、必ずその刻面上を遂げ御意を得べく候。」

「恐惶謹言。九月廿日 秀吉 御判 愛季公 貴報」

能代市史 資料編古代中世一 能代市史編さん委員会 平成十年三月 より引用…

註釈:
城介殿御若子…秋田城介信忠(信長長男)の子、秀信(三法師)
三介殿…信雄(信長次男)
三七殿…信孝(信長三男)


本文全文である。
書き出しでは、愛季公からの書状に対する礼や本能寺の変が事実である事。
二番目では、毛利攻めと山崎合戦に至る詳細。
三番目では、現状…つまり清洲会議の結果、三法師を世嗣ぎとし、信雄,信孝の処遇や自分が山崎に入る事。
四番目では、翌年から東国攻めを始めるので、その折に会談したい旨を申し入れしている。
日付が9月20日なので、信長の葬儀の前になる。
愛季公は、本能寺の変の直後位には、かなり丁寧な書状を秀吉公に送り、その返書がこれだと言う事になる。
つか、既に情報を取って対応してると言う…
こんな抜け目の無さが戦国大名の恐ろしさ。
地味に情報を集めていたと言う事だ。

秀吉公にして、随分丁寧な返書を送り、敬意を示したと解説している。
つか、合戦等がかなり詳細に説明している。
この辺が情報相殺の達人、人たらしたる秀吉公の片鱗か。
勿論、この書状も断片に過ぎない。
中世の終焉…こんなやり取りが行われていた断片である。


参考文献:
能代市史 資料編古代中世一 能代市史編さん委員会 平成十年三月