この時点での公式見解⑱…ならもう一度「諏訪大明神画詞」を観てみよう

https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/10/31/053428

能代市史は、竈探しの為に借りたのだが、当然安東氏の状況ら全く違う内容が多いのも確か。ならこの際、「諏訪大明神画詞」も取り上げよう。改めてこうやって原文ままの読み下しや現代語訳を通しで読むと、多分、中身が全然違う事に気が付くかと思う。
ではたまに現代訳で…


蝦夷ガ千島というところは、我が国の東北にあたり、大海の中央にある日の本・唐子・渡党、この三種がそれぞれ三三三の島に群居している。今二つの島は海の彼方とまじっている。そのうちの宇曽利鶴子洲と万当宇満伊丈という小さい島々がある。この種族は多くは奥州津軽の外ガ浜に往来して交易している。蝦夷の一把(団)は六〇〇〇人である。集まった時は一〇〇把・一〇〇〇把になるという。」

「日の本と唐子の二つは外国に連なり、人体は夜叉のように変化する。人々は鳥や魚や肉を食べ、五穀を作ることを知らない。何回訳しても言葉は通じ難い。渡党は倭国の人と似ている。ただし、鬢が多く全身が毛でおおわれている。言葉は粗野であるが大部分が通じる。この中に公超霧を降らす術を伝え、また公遠隠形(遠くに姿を隠す)の道を会得している類もある。戦場に赴く時は男子は甲冑・間矢を帯びて、前面に進み、女性は後方にいて木を削って弊帛のようなものを作り、天に向かって祈る様をする。男女ともに山を歩くときも乗馬はせず、身の軽いことは飛ぶ鳥や獣の走る様と同じである。彼らが使用する矢は魚骨で作った鏃で、それに毒薬を塗り、わずかに皮膚に触れると死亡する。」

「もともと酋長もいなかったので、幕府はその乱れを鎮めるため安藤太という者を蝦夷管領とした。この安藤太は昔、反乱を起こした安倍氏の高丸の子孫である。」


能代市史 資料編古代中世一」 能代市史編さん委員会 平成十年三月より引用…

諏訪大明神画詞」より、「東夷蜂起して奥州争乱し、武家濫吹を鎮護のため安藤太を蝦夷管領にしたという。」…の一部である。
蝦夷についてと何故安東が管領になったかの記述を一纏めに抜粋してみた。

少し、通常語られる話とニュアンスが違う所があるのに気付くだろう。

①日ノ本,唐子について
読み下しの表現は「日の本唐人の二種は、其地外国に連て…」になっている。
では、「新北海道史第二巻通説一」においては?
「日ノ本、唐人ノ二種ハ其地外国ニ連テ」…記載はある。
で、本文中では、江戸期に本道アイノが日ノ本衆(チュプカグル)と呼んでいたとある。
また、唐子は古く松前地方では樺太の事をカラトと呼んでいたとある。
この二文なら、「二種は外国に連なりて」と合致はしてくる。つまり渡来人だと言う事になってしまう。
ならば、本道アイノとは?
そう、津軽から渡って来たと言う渡党しか残らない。
つまり、この説明なら、縄文直結の人々は居なくなる…論理が破綻する。
で、それぞれ混血している事を認めねば、諏訪大明神画詞とこれら説明の合致はしない。
この場合、単一民族と言う事も棄却される。

②渡党について
あの文脈からいったら、素早い動きしたり、毒の鏃、男は鎧で女が御幣振り回してるのは「渡党」の人々の特徴になる。
新北海道史の本文中でも、近世アイノとの共通点に上げている。
が、それなら先の通り、本道アイノは渡党だと認めてしまう事になる。忌み嫌う(様に設定された)倭人の類い。
これも設定上、単一民族とはならないだろ。
つまり論理破綻する。
そう言えば、渡党が、霧を呼び姿を隠す等何やら呪術を使える部分も描かれないが。

③分布や時期
仮に、日ノ本→千島系、唐子→樺太系、渡党→本州系としよう。
諏訪大明神画詞では、いつ頃から外来した等の時期らには全く触れておらず、分布的にそれが本道の姿だなどとも、一片たりとも触れてない。
333の島にそれぞれ住んでると書いているだけ。
つまり、漠然と北方一帯の話程度でしか描いていない。
千島や樺太との関連を深めれば、渡来人だと認めてしまうだけ。
本道アイノと渡党と関連を上げれば上げる程、自らを本州人と連なると認めてしまうだけ。
更に、時期が特定されないので、奥州合戦後の追撃に参加した御家人らより、後に渡来した可能性すら出てしまう。
元々、諏訪大明神画詞は、古来蝦夷と近世アイノが繋がる証拠として用いるべき史料ではない。

まぁ、原版を再度観てみる事をお勧めする。



参考文献:
能代市史 資料編古代中世一」 能代市史編さん委員会 平成十年三月

「新北海道史 第二巻通説一」 北海道 昭和四十五年三月二十日 より引用