日本海交易拡大を計る戦国大名達…「朝倉義景公」「上杉謙信公」から「安東愛季公」への書状

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さて、「麒麟がくる」系のトリは、日本海交易を拡大しようとした大名達からの書状を二通紹介する。
わざわざ、地方史書の資料編借りるのも、こんな話を見たいから。と言うか、北海道~東北の関連史的には、これこそが本命だろう。
共に八戸音喜多文書から。
下国、湊の両安東氏を統一した安東愛季公。
割と湊氏は交易らは自由に任せた節があるが、愛季公は内陸部との河川運輸のイニシアチブも握ろうとした節があり、当然ながら勢力拡大に至れば、日本海交易の入口たる秋田湊や能代湊をその権益拡大に使うだろう。

ではまずは朝倉義景公配下の一源軒宗秀から愛季公へ宛てた書状。

「いまだ申し通さず候といえども啓上せしめ候。そもそも御先代同名弾正左衛門尉申しうけられ候や。なかんずく貴庵太朗左衛門入道へ別して御懇意のよし、連々承りにおよび候ところ、当府において砂越入道殿たびたび参会の上、御ざつだんともゆえ、恐れながら向後申し談ずべきため、このたび申し上げ候。したがって軽萠の至りに候といえども脇差一腰、新身1尺八寸、鞉焼羽装束添子いずれも金、ならびに鉄砲一丁国友丸筒、ついでに桐油袖一を進上せしめ候。誠に祝意を表すばかりに候。上口へ相応の御用など仰せを蒙るべく候。義景へ具らかに申し越すべく候。なお也足軒御演説あるべく候。恐惶謹言。」

能代市史資料編古代中世一」能代市史編さん委員会 平成十年三月より。

朝倉義景公は、先代孝景が湊尭季?と交流あり、庄内の砂越氏が越前にたびたび来てるので、檜山の下国(愛季)公とも交流したいと言う申し入れ書。
脇差に鉄砲、鼓に合羽…贈り物付きである。
一番喜んだのは国友の鉄砲?。
何せ、織田信長公からも幾つか調達し、脇本城では弾丸が出土している。
砂越氏は庄内の武将。
家柄複雑ではあるが、愛季公配下大高氏らのとも書状やり取りがあり、県南の小野寺氏と結ぶ由利十二頭らを牽制させたり、小野寺氏のと和議仲介をしてもらったりしている。
逆に庄内藤島の大宝寺氏の身内争いへ安東氏が仲裁したり。
朝倉氏の一乗谷へも行き来していたとあるので、フットワークが軽い方なのだろう。

次は上杉謙信
重臣直江政綱(兼続の養父)より、愛季公へ宛てた書状。

「それ以来は、良く久しく御音問あたわず、御床しく存ぜしめ候。よって貴州の御備え堅固の段、めでたく御簡要に候。当国無事に候。この口相応の御用、仰せ蒙らば、疎意あるべからず候。然れば小用あり、その筋へ船差し越し候。緒浦へ出入相違なきよう、恐れながら御意を加えられ、かたじけなく存ぜしむべく候。したがって段子一巻進め入れ候。誠に御音信の一儀までに候。なお重ねて申達すべきの条、審らかにあたわず。恐々謹言。」

能代市史資料編古代中世一」能代市史編さん委員会 平成十年三月より。


上杉氏もこの直江政綱の書状が幾つか残っている。
こちらも安東重臣の大高氏も含め、書状をやり取りしている模様。
この書状では、ズバリ何らかの用で北へ向かう廻船の便宜を図るように依頼している。

朝倉義景公にしても、上杉謙信公にしても、懇意の商人を北に回そうと考えれば、秋田湊や能代湊を無視出来ない。
既にこの頃、秋田湊では夷船が行き交っていたので尚更。
江戸期の北前船フィーバーとは比較出来ないが、昆布ら、北からの産物を大消費地である畿内らに送り、一儲けしようとすれば、入口である安東氏と結んでおかねば、何も出来ない。

残る書状らでは、割と愛季公へ「鷹」を所望して、そこから交遊していくパターンもあるのだが。(実は当時の鷹の育て方の伝書もある)
この時、津軽十三湊はまだ再生前。
近辺最大の湊は秋田湊なのだろう。
後に、江戸初期のアンジェリス神父ら嶋渡りも秋田湊だったのも頷けると言うものの。

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定期的に行き来が出来たのだろう。

これらを見ても解る。
戦国大名達は、無下に戦乱に明け暮れてばかりいたのではない。
皆、それぞれネットワークを引き、大名本人だけではなく家臣同士の交遊も含め、お互いに「仲間集め」をして、勢力拡大をしたり殖産,物流拡大をして、領国の繁栄を図っていた。

戦なぞ、最終手段。
何せ、敵の味方が背後に居れば、挟み撃ちを食らう。
お互いに牽制しているから、簡単に出来るハズもない。むしろ、面子からの身内争いに、隣国が加勢される方が確率が高いのでは?

こんな、交遊を示す書状が示す状況が、戦国期のリアルなのでは?
故に、忍びや商人らも含めた情報ネットワークが最大の武器だったとも考えられると思うが。
やはり力を持つ武将は、筆まめで心配りが出来ると言う、特性が必要だったのではなかろうか?
そう思う。


参考文献:
能代市史資料編古代中世一」能代市史編さん委員会 平成十年三月